母に奉げる詩(2)

15 閑話
08 /31 2017
  (3)
母も60歳で死んで逝った
風邪をこじらせて
救急車で
病院に運び込んだ
3日目のことだった
点滴だけの対応で
付いた医師はインターンだった
どうして死んだか
今もわからない

だが 僕も
病室で母が死ぬ時
母の手を握って
不幸ばかりを考えていた
母が長生きしても
幸せは来ないとか
つらいことばかりだとか
僕の人生に照らして
暗澹と考えた
だから…
母の手が
力なく離れて行ったのを
僕は
強く握り返す
ことさえできなかった
離れて行く
母の魂を
呼び止めもしないで
僕は
自分の不幸に浸って…

母は離れた位置から
僕を見つめて 
どんなに情けなかっただろう
自分の事で
悩むばかりの
馬鹿な息子を見つめて
母はあきらめて
自分から逝ったのだ

  (4)
夕暮れて
色のない風の中を
父が一人
鍬をかついで行く
家の方角でない
真反対の
畑野の向こう
黒い杜に向かって去って行く

茅葺の家に
僕が眠っている
祖父も祖母も死んでしまった
父が帰って来ないと
僕の枕辺で
母が呟く
死んだ父の夢を見たと僕が言い
杜の方へ行ったと母に教える
すると母が
淋しい笑顔を見せて言う
○○○○と
ああ…
母も死んでいる
僕は気付く
涙があふれて
胸が締め付けられる
茅葺の家には
誰も居ない
僕だけが寝ているのだと

僕は目が覚める
妻が傍の布団で静かに眠っている
ここは街にある僕の家だ
何もかもが分かってしまう
すると
死んでしまった人達は
表情を失くして消えて行き
茅葺の家が
灰のように崩れて
散って行く



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8月の閑話(1)

15 閑話
08 /30 2017
母に奉(ささ)げる詩
(1)
寒の雪が降る
牛頭神社の軒下に
若い母が一人で
赤ん坊を抱いて蹲り
嫁家に詫び行った姉を待っている
僕の記憶にない
村の入り口の
無人の神社を眺めて
母が語った昔話だ

闇明観音を訪ねて
菜の花畑がつづく小道を
母と母の姉がおしゃべりして歩いて行く
そよ風に眠くなるような夢の中だ
母の幸せを一杯に感じて
僕はいつまでも目を瞑って

米三郎店へ
一人でお使いに行った時
買い物帰りに
お腹が痛くて
ウンチが出そうになってきた
もう少しだ
もう少しだ
長い距離を
我慢を重ねて歩いてきたが
家が見えた途端に
漏らしてしまった
泣きながら帰った僕を 
母が優しく始末してくれた

通知表の成績が上がったので
学校帰りの道で
僕は母に見せたのだった
母は道端にしゃがみこんで
にこにこしながら僕の成績を見た
僕は得意で少し照れていた

(2)
時は経って
視界も広く
僕の世の中が開けてきたら
僕の母は農婦だった
低い鼻の下に
少し尖った唇があって
怒りや悲しみが
すぐに飛び出す
40女の顔をしているのだった

三世代で住む僕の家は
豚や牛やヤギ
犬に猫にニワトリ
用水池の鯉
それら生き物が住む
広い敷地の王国ではなく
茅葺屋根の貧しい農家で
大きな囲炉裏と板の間
燕が板間の天上に巣を作ることも
もう自慢なことではなく
何もかもが恥ずかしい
ひ弱な僕の劣等感に
積み重なる澱(おり)のようだった

兄が普通高校を受験する時
祖父は反対し
親族会議まで開かれた
父も母も黙して
親族が一様に受験を勧めると
祖父は「この家も終わりだ」と
泣いたのだった

祖父の言葉のとおり
兄も僕も妹も
次々に進学して家を出て
ついに村には戻らなかった
いつの間にか
燕は家に来なくなり
祖母も祖父も死んで逝った
父は60歳の
秋の夕暮時
村の若者の車に轢かれて
あっと言う間に死んで逝った
外から嫁いだ母が一人
茅葺家に残されたのだった

「うつそみ」と「うつせみ」(21)

23 巻13 第17歌群
08 /29 2017
 記紀歌謡が載る本体である書物の記紀はどうでしょうか。私の論の視点から述べて見ます。書記を読めば、編纂を命じたのが天武天皇だと分かります。戦禍等で失った古記録を惜しみ、一方で勝手な系譜が出回る弊害を憂いて編纂を命じると、目的を述べています。そうは言っても、新政権の皇統と壬申の乱の正当性を伝える記録は是非とも必要だったことでしょう。その事業は草壁皇太子に引き継がれるはずでしたが、死亡したため皇后(持統天皇)に引き継がれます。持統天皇は、孫(文武天皇)に引き継ぐのですが、同天皇も若死にしてしまいます。その文武天皇の子に皇統をつなぐために母である元明天皇、叔母(元明の娘)である元正天皇が即位して皇統を守るのです。この変則的な皇位継承を行って目指していたのは、聖武天皇の即位でした。そのような背景の下で、記紀は成立したのです。編纂命令から約40年(書紀成立まで)が経過していました。
 日本書紀は、720年に成立した直後から講釈され百官の必読書であったようです。単なる記録ではなく、皇統の歴史書であると同時に啓蒙書であったことが明白です。すると、天武天皇が最初に目論んだことに加えて、さらに大切な事項が40年間には生じていたはずです。変則な皇位継承こそが第一義の問題ですが、今は記紀歌謡に関わる話です。その1番の大事件は、吉野の盟約を破る大津皇子の謀叛事件だったと思います。なにせ記紀成立まで謀叛事件なんて一度もありませんし、皇族の微々たる事件だってなかったのです。巷間では皇后(持統天皇)の陰謀だと噂された事件でもありました。不吉な事に草壁皇太子は、大津皇子を追うように亡くなってしまいました。吉野の盟約を行った皇たちも次々に亡くなり、呪が罹(かか)ったという噂も出た事でしょう。加えて、大伯皇女の伊勢斎宮廃位事件です。皇統の守り神である斎宮が廃止されたのです。天皇の死に対応する斎宮廃位というのが後世の常識ですが、最初の時点では不明確で、事件によって廃止されたというのが私の想像です。さらに廃宮10数年を経て、文武天皇即位に合わせた遷宮復活が行われたのです(これも勿論私の想像)。その文武天皇も若死にしてしまいます。大伯皇女、大津皇子姉弟の呪を感じた人々は多かったことでしょう。このような目で書紀を見れば、文武天皇の男子(聖武天皇)出生年と大伯皇女の死亡年は同じ年(701年)なのです。なのに、書紀はこの目出度い皇子の出生日を記録せずに、大伯皇女死亡(12月)後「この年、皇太子出生」とわざわざ後記事にしています。いかにも大伯皇女の呪を意識した記録の後出しに見えるのです。

 この2つの事件は、万世に伝えて行く歴史記録書に頭の痛い事項であったと思われます。大津皇子の事件は時間の経過で忘却していくとしても、持統天皇の謀略という不名誉なうわさを引きずるのです。一方、伊勢斎宮の事件はそういきません。伊勢斎宮は、天武天皇の編み出した画期的な皇統崇拝の象徴であり、持統天皇が反対を押し切って復活した大事な祭祀政策だったからです。それに二人には、歌があったのです。すでに残された歌が。

「うつそみ」と「うつせみ」(20)

23 巻13 第17歌群
08 /27 2017
 金村が宮廷歌人であるからには、大歌と言われる過去の朝廷歌謡を知らないわけがありません。万葉集研究者が説明する巻13の歌は、各地から収集され編曲されたと見る伝承歌です。采女風歌謡であろうが土地誉め歌であろうが、折口信夫の言葉で言えば大歌としてあったのです。ですから、金村が巻13歌を知っているのは当たり前なのです。過去の優れた大歌から類句を借用するのは当然に思えます。つまり巻13歌を金村こそが模倣しているのです。それは朝廷歌人である人麻呂にも当てはまることです。巻13の歌と人麻呂の歌の間に類句があるのは、当然のことで、それは人麻呂が模倣しているのです。
 しかし、万葉集研究者は、誰も巻13歌と金村の歌の類想歌をこのような立場で見ていません。不思議なことです。各地の伝承歌だと言い、朝廷で詠われた采女風歌謡だと冠しても、模倣の段では、いきなり巻13歌が金村歌よりも新しく見なされるのです。人麻呂との比較では問題にもなりません。はなから巻13歌が、人麻呂を模倣しているという訳です。では、このような正体不明な朝廷歌謡(大歌)とは何でしょうか。巻13歌とはどんな関係を考えるべきでしょうか。

 大歌の代表は、記紀歌謡です。神武天皇が東征した時の歌謡(来目歌)に、「今、楽府(おほうたどころ)でこの歌を奏(うた)ふときには…」と説明がついています。つまり、記紀歌謡の出典根拠は、記紀成立当時の楽府の歌謡だというのです。楽府を律令の組織令で調べれば、雅楽寮をさしています。雅楽寮は大宝律令制定(701年)以降に組織され400人以上を抱える歌舞楽の集団でした。多くは外来(唐や高麗、百済など)の歌舞楽を行うものだったのです。その前身は、天武天皇の時代に作られたと見られています。日本書紀の天武天皇代に、2つの命令(詔)が初見します。1つは、歌舞楽に長ずる人を諸国から集める命令(681年)です。2つは、歌舞楽を家系で伝授し養成させる命令です。これらから、各地の歌舞楽を朝廷に収集し編成し始めた最初の天皇は、天武天皇と見られるのです。
 歌舞楽は、中国や朝鮮半島の古代国家を見れば、葬儀や朝廷行事、他国の派遣団に対する歓待行事等に活用されて、すでに高度な技術と文化を持っていたように思われます。日本の導入と整備はこれらより遅く、7世紀後半から推進されたのです。その歌舞楽をさらに推進し、年中行事や行幸に積極的に取り入れているのは、持統天皇です。伊勢行幸や正月の踏歌などに歌舞楽が見られるからです。この延長上に大歌が成立していると、私は思うのです。すると、記紀成立の時代(712年と720年の成立です)には、すでに歌舞楽がさかんに行われて観劇されていた。そのような大歌が記紀歌謡として記紀にある歴史の逸話にはめ込まれたのです。それならば、朝廷参賀の行事で知れ渡った歌舞楽です。全国に啓蒙すべく記紀の趣旨にもかなったのではないでしょうか。記紀歌謡が記紀の逸話とともにあったのではないのです。現実の過去にあって詠われたものが、記紀の逸話に意図的に組み込まれたり、逆に記紀に逸話を形成したりしている。と想像するのです。
 それは、現在の雅楽を見て思うことです。雅楽は、古代から伝承された朝廷の歌舞楽として宮内庁の管轄下にあります。天岩戸のウズメノミコの踊りに端を発した、神代から続く日本の歌舞楽のことです。ところが、現在の雅楽は明治以降に新たに編成されたものです。明治天皇を戴く皇国日本という強い理念に立って、再編されたものなのです。江戸時代300年の下に受け継がれて来た3つの伝統楽所は廃されて、新しい1つの雅楽に統合(単純化)され、今日に至っているのです。古代から朝廷に受け継がれて来た秘伝の歌舞楽と思いがちですが、新しい装いの下にあるものなのです。
 この見方をあてはめて見ます。天武天皇は壬申の乱という大乱の後に、近江朝を滅ぼして新たに朝廷を成立させたのです。大化の改新時のクーデターとは比較にならない政変なのです。この下で律令政治を引き継ぎ、その後中央集権国家として発展していったわけです。天武天皇が、歌舞楽を朝廷に収集し編成したのは、戦禍で焼失したものを再編したとも理解できます。もしそうだとしても、その場合の意義は、明治維新時の雅楽と類似することで、やはり新しいものが再編し作られたのです。歌謡(大歌)もすでにあったとしたら、この後以降に新体制下の意義に基づいて形成されたと想像されるのです。勿論、私は、歌舞楽の大々的な組織化は天武天皇以降と考える者です。

「うつそみ」と「うつせみ」(19)

23 巻13 第17歌群
08 /26 2017
(9-1787::金村の歌にあるという左注が付いている)
   題詞「天平元年冬12月の歌」
 うつせみの 世の人ならば
 大君の 御命恐(みことかしこ)み
 磯城島(しきしま)の 大和国の
 石上(いそのかみ) 布留(ふる)の里に
 紐解かず 丸寝(まろね)をすれば
 わが著(き)たる 衣は穢(な)れぬ
 見るごとに 恋はまされど
 色に出なば 人知りぬべみ
 冬の夜の あかしも得ぬを
 寐(い)も寝ずに 吾はぞ恋ふる 妹が直香(ただか)に

 時間的には1年後に作られた長歌です。歌は、「現実の世の人間なので大君の命令を畏んで受け、大和国の石上の布留(ふる)の里に紐も解かずにごろ寝をすると、衣はよれよれになった。…(妻恋いを)素振りに出すと、人に知られてしまうので、人の寝静まった冬の夜の明かし難い長さを、まんじりともせず私は恋うることだ。おまえの直香を」といった内容です。大和国に赴任した(出張でしょうか)夫の妻恋い歌です。
 先の女性に仮託した離別歌に続くので、二人の男女の離別の恋歌としてあつらえたような物語性のある歌です。勿論、先の長歌に続く反歌は「み越道の雪降る山を越えむ日は 留まれる我を懸けてしのはせ」とあるので、夫は越の国に赴任したのです。こちらは、大和国なので、背景は違います。にもかかわらず、離別歌で妻の立場と夫の立場から詠んだ歌で並ぶので、何か観劇的な物語性を感じさせるところが、金村の歌の特徴なのです。
 でも、論じることは別なことです。この長歌には、4か所に渡って他の歌との類句があるのです。以下に挙げて見ます。
 ①磯城島(しきしま)の 大和国
  →磯城島の日本国(やまとのくに) :13-3248番の冒頭句
 ②色に出なば 人知りぬべみ
  →色に出でて 人知りぬべみ    :13-3276
 ③寐(い)も寝ずに 吾はぞ恋ふる
  →寐(い)も寝ずに 吾が思ふ君は :13-3277
  →寐(い)も寝ずに 妹に恋ふるに :13-3297
 ④吾はぞ恋ふる 妹が直香(ただか)に
  →吾はぞ恋ふる 妹が直香に    :13-3293

 一つの長歌に、巻13の長歌相聞5首から5つの類句を発見できるのです。短い章句は、常套句となって偶然に重なることは当然あります。あるいは、金村の歌の方が同時代ならば有名だったからその模倣が広く行われた。などの想像も可能です。このように考えるのは、巻13作者の不特定さに負因を置いて、金村の知名度に依った見方に立てばのことです。
 しかし、例えば、「磯城島(しきしま)の」という枕詞の例を取って見ると歴然とします。この枕詞は、歴史的にも大和時代以前を彷彿させる古い言葉です。集中では7例しか使われていません。内4例が巻13、金村が1例、家持が2例という割合なのです。このような枕詞1つをとっても、巻13が強力な磁場であることは明らかです。その磁力は古い言葉の宝庫としてばかりあるのではありません。金村が使用している②から④の類句は、巻13に隠されている男女の密愛を象徴する表現でもあるのです。これらの章句を含む長歌相聞の幾つかは、すでに解釈を終えています。その中では、章句の模倣など問題になりませんでした。むしろ、密愛のリアリティーを自然に構築した歌ばかりでした。そもそも巻13の長歌群を、畿内国を中心に周辺諸国に及ぶ各地方から集めた伝承歌だとか、朝廷における采女風歌謡だとかくくってしまう見方に無理があるのです。
 奈良時代前期の著名な朝廷歌人である金村の歌の影響によって、巻13の相聞長歌に類句が頻発しているのではありません。金村本人こそが巻13の長歌相聞を読んでおり、かつその男女の密愛物語を理解していたと想像すれば納得できることなのです。
 巻13における密愛物語…宮廷歌人である金村が何を理解していたか。またまた論旨から外れて行きますが、この点を次に述べて行きます。

「うつそみ」と「うつせみ」(18)

23 巻13 第17歌群
08 /25 2017
 話を「うつそみ」に戻してみます。大伯皇女が最初に使用(686年)したこの言葉(2-165)は、柿本人麻呂の一連の歌で使用されただけで、万葉集の歌から消えてしまいます。巻2の中で完結し、その後には一切登場しないのです。それが、50年も経た後(750年)の挽歌で、大伴家持が「うつそみ」を突然登場させたのです。それも、誰も気づかないようなたった一回の登場です。その歌には「うつせみ」も1回登場し、二つの言葉の因果な関係を演出しているかのようです。私が大発見と騒ぐポイントでした。何故ならば、大伴家持が巻2編纂者と同じように二つの言葉を使い分けていたからです。
 その片方の「うつせみ」は、万葉集歌内の時代変遷でどのような登場を見せているか、それを今見ていきます。

 「うつせみ」も、人麻呂の歌(701年頃)以降に使用が途絶えて、728年(神亀5年)の金村の歌で再度登場したように思われます。それも、家持の歌に使用(天平11年)されるまでの期間では、4首しか見当たりません。1首が「大伴宿祢三中の挽歌」で、残る3首は金村の歌なのです。勿論、「うつせみ」の使用例「作歌及び作者不明歌10首」があります。この中に該当する歌があるかも知れないので、軽々しく決めつけることはできません。
 しかし、家持が「うつせみ」を使用するまで、集中に現われる「作成時代判明歌のうつせみ」使用例は10例です。この内、長歌での使用が9首で短歌は1首のみです。「うつせみ」は、長歌に登場することが大きな特徴です。長歌で顕著に使用されていた点に着目し、この長歌(反歌を含む)から追跡すると、作者不明歌10首に長歌は2首しかありません。その2首は、いずれも巻13にある女性の歌なのです。その内の1首(13-3291番歌:実際は反歌に使用されている)と笹朝臣金村の長歌9-1785番歌は、類想歌の問題を持っているのです。すでに3291番歌解釈で取り上げていますが、もう一度掲げて比較して見ます。

(9-1785:金村の歌にあるという左注が付いている)
題詞「神亀5年8月の歌」
 人と成る 事はかたきを
 病葉(わくらば)に 成れる我が身は
 死と生も 君がまにまに
 思ひつつ ありし間に
 うつせみの 世の人ならば
 大君の 御命(みこと)かしこみ
 天離る 夷(ひな)治めにと
 朝鳥の 朝立ちしつつ
 群鳥の 群立ち行かば
 留(とま)りゐて 吾は恋ひむな 見ず久ならば
  (以下略)

(13-3291:作者不明の女性)
 (略)
 大君の 遣(まけ)のまにまに
  (或る本:大君のみことかしこみ)
 夷離(ひなざか)る 国治めにと
  (或る本:天離る 夷治めにと)
 群鳥(むらどり)の 朝立ち去(い)なば
 後(おく)れたる 我(あれ)か恋ひむな
(以下略)
(13-3292:上記の反歌)
 うつせみの命を長くありこそと 留(とま)れる吾は齋(いわ)ひて待たむ

 この巻9にある金村の長歌は、相聞歌の部立てに入っているもので、左注(金村の歌にある)に基づいています。歌は、夷(ひな)に旅立つ夫を妻の立場で詠った離別歌です。彼の作である「娘子にあとらえて作れる歌」(4-543)と同じ部類の女性に仮託した離別歌です。万葉集における金村の歌は、行幸時の宴歌に詠われたもの、女性に仮託した相聞歌(離別歌)などに特徴があると言われています。そこには独創性がなく抒情性にも乏しいという研究者の見方があるのです。このような見方を踏まえて、上記の金村の歌を鑑賞してみます。
 (中西進「全訳注」)
 人間として生まれることは 難しいものを
 たまたま人間として生まれた 私の身は
 死ぬも生きるも 貴方の御心のままにと、思っていたところ
 (あなたは)現実の世の中の人間だから
 大君の御命令を畏(かしこ)んで
 天遠い地方を治めるとして
 朝鳥のような朝立ちをつづけて
 群鳥のごとく群立って行こうとしている
 後に残された私は恋しいでしょうよ
 お逢いしない日が長くなれば
                    (中西進「全訳注」による)
 
 中央の官僚が国司や節度使として地方に派遣されて国を治める律令制は奈良時代に入って確立したと言えます。そのような地方へ派遣された夫と京に残る妻の離別を詠った歌です。出だしの無常観とも取れる内容から後半へのつながりは、一見整合性があるようで、深刻味が足りなく感じられます。最初が重く後が軽いとでも言うのでしょうか。男性作という先入観もありますが、イマイチ感があるのです。その後半部が、13-3291番歌(作者不明の女性作)の長歌と類似するのです。どう見ても、巻13の女性歌の方が抒情性から見てもオリジナル性から言っても優れていると見るのは、ひいき目によるものでしょうか。そこで、金村の長歌をもう一つ並べて見ます。

「うつそみ」と「うつせみ」(17)

23 巻13 第17歌群
08 /24 2017
 長いことブログを休んでしまいました。
 気持ちが前のめりになって、思索がついていきません。独りよがりな思い込みに陥って、堂々巡りの蛸壺状態になってしまいました。理解する人も助言する人も批判する人も誰もいません。身近にいないのだから遠くにもいないのです。ふと立ち止まり、改めて不安になったのです。暗夜で立ち止まった気分です。ぶつぶつと夢中で自問自答してきた自分がいたのです。酔い痴れて昂揚し、夢中だったところから、立ち止まった途端、誰もいない静寂に気づいたのです。一人で独り言を繰り返している…気づけば暗夜の真っ暗、何も見えません。何と言う無意味!
 そのくせ、全く別なことも考えたのです。これは自分のぐちゃぐちゃした思索よりも文章力の問題だと。そこで、もう一度最初の地点に戻って、「うつそみ」と「うつせみ」を書き直そうと思ったのです。一からやり直してみたら、もっとぐちゃぐちゃになってしまいました。暗夜に歩いてきた道を、途中から戻り直しするなんて、却(かえ)って無理なことだったのです。山の遭難見たいなものです。 
私は一人で、まるでくだらないことを書いているのだろうか。自問して見ました。否です!「うつそみ」と「うつせみ」にはそれなりの意義があるのです。調べれば調べるほどに思いを強めます。そして、この手がかりから万葉集を見渡せば、新たな万葉観につながるはずなのです。
 行き着いていない時点で不安になり道を戻り直ししたところで、かえって迷うだけでした。猪突猛進。先に進んで、どこかへ辿(たど)り着くことが先決だ。それから道を舗装することだってできる。と、まあ…ポジティブな気持ちに切り替えてみました。もう一度前へ進みたいと思います。真っ暗いという認識は置いて。再度挑戦して見ます。


   「うつそみ」と「うつせみ」
 笹朝臣金村は、人麻呂同様歴史的には素性不明な人です。集中の「志貴皇子の挽歌(2-230)」から「入唐使に贈る歌(8-1453)」までの時代判明歌に基づけば、716年(霊亀2年)頃から733年(天平5年)頃までに活躍した宮廷歌人と見られています。天皇の行幸に従篤して作った歌が多いことで知られる人です。同じ場面で一緒に詠った歌人には、山部赤人や車持千年がいます。万葉集における人麻呂や赤人の定評に較べれば、数段も評価が低い歌人に思われます。その大きな理由は、宴歌的、偽装歌(娘子に託した歌等)的な歌内容にあります。女性に仮託した愛のテーマや過去歌から借用したような類句が目立つために、創造性や抒情に欠ける歌人と見なされているからだと思います。
 しかし、当時にあっては赤人と双璧をなす歌人であり、万葉集の長歌に着目すれば、家持、人麻呂、赤人に次ぐ長歌数(関係歌を含めれば12首)を登載している有数の歌人なのです。その金村が、「うつせみ」を長歌で3回も使用しているのです。同時期の朝廷歌人、赤人や車持千年などは1回も使用していません。それに、同時代での「うつせみ」使用は、先に挙げた大伴三中の挽歌が一首あるだけなのです。

読み人知らず

 東北の田舎に暮らす退職者です。こんな年齢で万葉集を読み始め、読むほどに好きになりました。たくさんの人が万葉集について語っています。
 私も、巻13にある「読み人知らずの歌」を語りたくなりました。誰にも読まれずしんしんと埋もれていくとしても…