山上憶良の「類聚歌林」(13)

 山上憶良の「類聚歌林」
07 /23 2022
   有間皇子の逸話と山上憶良の類聚歌林(2)
 巻1-7の左注には、「類聚歌林」の引用に続いて「日本書紀」の引用が記されています。その内容を私の言葉で略記すれば「659年(斉明5年)1月3日に、天皇は「紀の湯」から皇宮へ戻られた。3月1日には吉野宮で宴会を催し、同月3日には近江の平浦(滋賀県志賀町の辺り)にお出かけになられたと言う」と述べている。たったそれだけなので、天皇の物見雄山を想像して何事もなく見過ごしてしまいそうです。
しかし、日本書紀の「斉明5年」の条を読むと、天皇が「紀の湯」へ出かけられたのは、前年(658年)10月15日でした。それから約2か月半、「紀の湯」に長期滞在していたことになります。その間の11月、有間皇子の謀反事件があったのです。留守官蘇我赤兄の口車に乗って謀反の談議をしてしまった皇子は、赤兄の手によって捕らえられ、紀の湯に連行されます。中大兄皇子の尋問に、「天と赤兄が知っている。私は知らない。」と答えたとされています。万葉集巻2「挽歌の部」の最初には、有間皇子の辞世歌2首(141、142)が載っています。「紀の湯」に護送されていく往路の道中で詠った皇子の歌です。その1首を次に挙げて見ます。

2-141
(題詞)「有間皇子、みずから傷(いた)みて松が枝を結ぶ歌」
 磐白(いわしろ)の浜松が枝(え)を引き結び
      真幸(まさき)くあらば またかへり見む
(評注の訳)
 ああ、私は今、岩代(いわしろ)の浜松の枝と枝とを引き結んで行く。もし万一願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。

 岩代(いわしろ)の浜松の枝を引き結んで、旅人の安全祈願に倣(なら)って、自分もまた謀反の疑いを晴らし無事に戻れることを祈願した。と言う歌です。もちろん、生きて帰れるはずもない事を承知で詠った皇子の辞世句でした。有間皇子は「紀の湯」で中大兄皇子の尋問を受けた後、大和への帰途、紀伊国の藤白坂で絞殺されます。斉明4年11月10日、有間皇子はその時19歳でした。このような大事件があった翌年1月3日に斉明天皇は、長期滞在した「紀の湯」から飛鳥の皇宮に戻ってこられた。3月に吉野宮で宴を持たれた後、比良宮(ひらみや)に出かけられた。これら一連の行幸(天皇のお出かけ)が、日本書紀に載っているのです。一方の類聚歌林が述べる「戊申(つちのえのさる)の「比良宮行幸」は、現存の書物からは確認できず、実際にあった事かも分からない内容です。
 なので、日本書紀の記載に従うとすれば、標目自体を「後岡本宮御宇天皇代(斉明天皇)」と変更せねばなりません。しかし、万葉集編纂者は歯牙(しが)にもかけず、「明日香川原宮御宇天皇代(皇極天皇)」に歌を配置し、矛盾を放置したのです。さらに、次の「後岡本宮御宇天皇代(斉明天皇)」に「紀の湯」行幸を再度登場させます。この最後にも、山上憶良の「類聚歌林」が引用されているのです。
 「後岡本宮御宇天皇代(斉明天皇)」にある歌の順番を見ても、疑義があります。最初の歌「1-8額田王の歌(熟田津の歌)」は、左注にある「類聚歌林」の引用が、全く役に立たない説明でした。実質的な説明は、日本書紀にある「征西」に基づくものだった。その年代は、斉明天皇7年のことでした。天皇はその年の7月に亡くなられたのです。斉明天皇没年の出来事と歌が、同天皇代の最初に配置されていたのです。そして、その後に「紀の湯行幸時(お出かけ)の額田王の歌」が続き、続いて中皇命の「紀の湯へお出ましした時の歌」が3首続くのです。その3首の左注に「類聚歌林」がまたしても引用されているのです。

 このような点を踏まえて歌の順番を見直すと、万葉集編纂者が「時代標目と題詞と左注」を使って時代順に並べた巻1の歌は、日本書紀と言う歴史書と照合すると、まるで変なのです。順番が滅茶苦茶です。それは私がちょっと調べただけでも分かることなのです。万葉集編纂者は、日本書紀をあまり読んでいなかったのでしょうか? 否、それはないと思います。万葉集研究者が指摘している事ですが、万葉集の中で使用されている不特定な参考文献の名称「一云、一本、或本、一書、或云等」は、日本書紀で使用されている文献名称と同じものが多いのです。それは中国の史書に見られる不特定な参考文献の使用名称と類似するもので、日本書紀作成で模倣されたものであろうと言われています。万葉集編纂者もまた、多様な不特定文書を実際に読み知っていたと言うよりは、日本書紀の常套句的な表現を借用したであろうと理解されています。その編纂者が、何をわざわざ山上憶良の「類聚歌林」を先に持ち出し、それに追記する形で「日本書紀」を持ち出したのかは、とても不思議です。時代順の誤りを私が見破るのですから、研究者ならば多くの人々が気づくことでしょう。ですから編纂者は見破られることを織り込み済みにしていると思います。そこに何か構成上の秘密を暗示しているのかも知れません。その際立ってでたらめな順番と思える箇所を次に挙げて、日本書紀の記載に従った正しい順番(?)に直して見たいと思います。そこにどんな意味があるのかを考えて行きます。
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山上憶良の「類聚歌林」(12)

 山上憶良の「類聚歌林」
07 /06 2022

   有間皇子の逸話と山上憶良の類聚歌林(1)

 万葉集に登場する「類聚歌林」の引用箇所は、次の9か所です。
①1-6左注
「類聚歌林に曰く、(舒明)天皇11年…伊予に幸しきと…」
②1-7左注
「同上を検するに曰く、成申の年比良宮に幸しし時の歌と…」
③1-8左注 
「同上を検するに曰く、(舒明)元年、9年…伊予の湯に幸しき…」
④1ー10~12左注 :1-9も関連あり。
「同上を検するに曰く、(斉明)天皇の御製の歌なり…」
⑤1-17(18)
「類聚歌林に曰く都を近江国へ遷しし時…」
⑥2-83
「(磐姫皇后の最初歌)83番は…類聚歌林に載せたり」
⑦2-90
「(軽皇女の歌)90番は、古事記と類聚歌林と説く所同じからず」
⑧2-202
「類聚歌林に曰く、檜隈女王、泣澤神社を怨むる歌なりといへり…」
⑨9-1673
「類聚歌林に曰く、長忌寸意吉麻呂が詔に応へて作る歌…」

上記①③⑥⑦にある共通のキーワードは、「伊予」でした。それは古事記の允恭天皇代にある「軽太子と軽皇女の逸話」に結びつく地名だった。同時に、大伯皇女の出生に結びつく「伊予」を暗示していた。さらに、伊予で死んだ軽太子の辞世歌には「こもりくの泊瀬」が詠われていました。その地名の矛盾を解き明かすのは、やはり「大伯皇女と大津皇子の悲劇譚」だったのです。万葉集編纂者は巻2相聞の部において、最初に「磐姫皇后の嫉妬譚」を掲げて4首の歌を示し、そこから「軽太子と軽皇女の悲劇譚」へと誘(いざな)ったのです。そしてさらに「大伯皇女と大津皇子の悲劇譚」につなげた…そのような編纂者の意図の下に、山上憶良の「類聚歌林」が引用されている。と言うのが、前回まで私が論じて来たことです。

 一方で、上記の②④⑨にも共通のキーワードを発見できます。それは「紀の湯」です。その「紀の湯」にどんな意味があるかと言えば、巻2挽歌の部の巻頭歌にある「有間皇子の歌」に関わるのです。万葉集に登場する謀反の罪で殺された皇子、若干19歳で亡くなったの悲劇の皇子…その有間皇子は、孝徳天皇の遺児です。悲劇を眺めるならば、645年の中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足等の手によって為された「大化の改新」と言うクーデター事件まで遡(さかのぼ)らねばなりません。蘇我入鹿や蝦夷が倒されると、中大兄皇子の実母である皇極天皇は退位を表明します。さらに筆頭後継者に目されていた古人大兄皇子は(中大兄皇子のクーデターを目の当たりに見て恐怖し)即位を固辞し、吉野に出家してしまいます。結果、皇極天皇の実弟である軽皇子が孝徳天皇として即位し、中大兄皇子は皇太子に付くのです。孝徳天皇は難波に宮を遷都して大化の改新を遂行して行きます。クーデターの実行者だった中大兄皇子は、蘇我氏打倒の後にも「古人大兄皇子の暗殺」、「蘇我倉山田石川麻呂大臣家の滅亡」等を次々に遂行し、朝廷の実権を把握して行きます。やがて、京を難波から大和の河原宮へ遷都するように奏上します。天皇は拒みますが、653年(孝徳9年)皇極上皇、間人皇后、大海人皇子等を連れて河原宮に移動し、官僚も皆従ったと言います。残された孝徳天皇は、恨みながら1年後の10月に難波で悶死するのです。その遺児が有間皇子です。皇子は、身の危険を逃れるために風狂を装っていたと言われますが、18歳時に紀の湯で養生をして回復を為した旨を伝えて、叔母である斉明天皇を喜ばせます。結果、1年後の紀湯行幸を誘引したとも言われています。斉明天皇や中大兄皇子達の紀湯滞在中、都の留守居役蘇我赤兄の誘いに乗って、謀反の心を明かしたばかりに、有間皇子はたちまち赤兄の手によって逮捕され、身柄を紀湯に護送されてしまいます。659年11月、有間皇子は紀湯に滞在していた斉明天皇達の許に送られます。そこで中大兄皇子の尋問を受けて再度京に戻されるものの、同11月の某日、紀国の藤白坂で絞殺されてしまうのです。19歳で刑死した悲劇の皇子として、万葉集では広く名が知れた存在です。その有間皇子の逸話に関係する部位分に山上憶良が登場し、ここにまた類聚歌林が引用されているのです。その部分を順番に考察して行きます。

②1-7左注について解釈する
巻1「明日香川原宮御宇天皇代(皇極天皇)」にある歌は、表記の7番「額田王の歌」1首だけです。その題詞、歌、左注を次に全部掲載して見ます。
① 標目
「明日香川原宮御宇天皇代(皇極天皇)」
② 題詞「額田王の歌」―いまだ詳(つまびら)かならず
 秋の野の み草刈り葺(ふ)き宿(やど)れりし
    宇治の宮處(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思ほゆ
③ 左注
 「右は、山上憶良太夫の類聚歌林を倹するに曰く、一書に戊申(つちのえのさる)の年、比良宮(ひらみや)に行幸した時の御歌といへり。但し、紀(日本書紀)に曰く、5年1月3日天皇は紀の温泉(ゆ)より戻られた。3月、吉野宮に行幸して宴(うたげ)を持たれた。同3月天皇は近江の平浦(ひらのうら)に行幸された。」

 「明日香川原宮御宇天皇代(皇極天皇)」は、642年から645年までの4年間です。日本書紀を読んだ限りでは、この4年間に比良宮(ひらみや)行幸の記事は見当たりませんでした。また、類聚歌林を引用した「戊申(つちのえのさる)」の該当年は、大化4年(孝徳4年)とされています(釈注)が、日本書紀の該当年に比良宮(ひらみや)行幸の記事は見当たりません。日本書紀が根拠となる左注の「5年1月3日」も、皇極天皇代が4年間ですから該当しません。
しかし、日本書紀が根拠となる左注「5年1月3日以下の内容」は、日本書紀(斉明天皇5年)の記載と合致します。それでは万葉集の標目は「後岡本宮御宇天皇代」であるべきで、「明日香川原宮御宇天皇代(皇極天皇)」とは矛盾してしまいます。ただ皇極天皇と斉明天皇は同一人です。万葉集でも天皇名が和名で同一の名称を挙げています。それに、「難波宮御宇天皇代」(孝徳天皇)が載っていないのです。それは、持統天皇一系の系譜を舒明天皇まで遡ってその後に即位した天皇を見れば明らかです。
「持統天皇一系の系譜」
①舒明(祖父)―②皇極(祖母)…●孝徳(異母叔父)―③斉明(祖母)―④天智(実父)…●「大友皇子×壬申の乱」―⑤天武(夫)―⑥持統(本人)―⑦文武(孫)―⑧元明(実子の妻)―⑨元正(孫)―⑩聖武(ひ孫))―⑪孝謙(聖武の娘)
上記のように繋げれば明らかなように、孝徳天皇は持統一系から辿(たど)れば傍流になるのです。

 また「明日香川原宮御宇天皇代(斉明天皇)」は、こじつけるならば成り立ちます。653年(白雉4年)、孝徳天皇を一人難波に置き去りにして大和に戻り、川原宮で政務を取った天皇は、後の斉明天皇であったからです。後岡本御宇天皇代(斉明天皇)と区別した「明日香川原宮御宇天皇代(斉明天皇)」を、万葉集編纂者が導入したとも推測できることなのです。 
 しかし、注目すべきはその後に続く日本書紀の引用です。その引用には意外な事件が隠されているのです。それを次回に論じて行きます。



山上憶良の「類聚歌林」(11)

 山上憶良の「類聚歌林」
06 /25 2022
   軽太子と軽皇女の物語(6)
 万葉集の題詞や左注で、歌の作者や成立、背景を説明する場合に、編纂者が使用している引用文献は3書しかありません。その3書とは、「古事記」と「日本書紀」と「類聚歌林」です。この3書の引用は、20巻中ほとんど巻1と巻2の中で行われています。参考までに、各書の引用部分を下記に挙げて見ます。人麻呂歌集や古集等の歌集も左注に登場しますが、当該歌の所属を示すのみで、「歌の作者や成立、背景を説明する場合」に当てはまっていません。この違いを再度確認しておきます。

(1)古事記の引用箇所 (4か所)
① 1― 6(軍王の歌)の左注
 「記に曰く、(舒明)天皇11年…伊予に幸ししこと」
② 2―90(軽皇女の歌)の題詞
 「古事記にいわく、軽太子、軽皇女に奸けぬ…」
③ 2-90(軽皇女の歌)の左注
 「古事記と類聚歌林と説く所同じからず…」
④13-3263(相聞歌:作者不明)の左注
 「古事記を検(けみ)するにいわく、歌は軽太子の歌と…」

 巻1に引用された古事記は「記」で、「紀」の誤用と思える全く役に立たないものでした。「舒明天皇の伊予行幸」と言う根拠に使われていたからです。古事記の記録は、推古天皇代までです。その後の舒明天皇代は、古事記に元々記録が無いのです。研究者も「紀」の間違いであろうと注釈しているぐらいです。ですが、注意を喚起するならば「伊予」への行幸がポイントでした。それは、次に関係して登場する「額田王の歌」の「伊予」につながるものでした。斉明天皇が舒明天皇の皇后だった時に出かけた「伊予行幸」に関わるものだった。その「額田王の歌」に登場する「伊予」は、「征西出発後に生じた大伯皇女の誕生」に結びつく「伊予」でした。一見、誤用のように見えても、万葉集に引用された古事記のキーワードは、「伊予」に結びつき、全ては「軽太子と軽皇女の悲劇譚」と繋がっていたのです。そして「軽太子の臨終歌」は、允恭天皇代には当てはまらない「こもりくの泊瀬川」を詠ったものでした。それは、「大伯皇女と大津皇子の悲劇譚」に繋がるものだったのです。
 巻1の古事記の引用が「紀」の誤記ならば、編纂者が万葉集で引用した古事記は、全て允恭天皇代の「軽太子と軽皇女の悲劇譚」に結びついて終わります。一方で、巻1の古事記の引用にある「伊予」に着目して「額田王の歌」の「伊予」につなげると、編纂者が万葉集で引用した古事記からは、「大伯皇女と大津皇子の悲劇譚」が現れてくるのです。

 編纂者が、万葉集巻1と巻2で引用した山上憶良の「類聚歌林」も古事記の引用に関わって、怪しい作用をもたらしています。そのような作用を起こさせているのは、もちろん編纂者の意図に違いありません。万葉集での「類聚歌林」の引用箇所は、9か所あります。それを以下に挙げて、怪しいと私が思う作用を次に読み解いて見ます。

山上憶良の「類聚歌林」(10)

 山上憶良の「類聚歌林」
06 /24 2022

   軽太子と軽皇女の物語(5)
 万葉集巻2(相聞の部)の巻頭歌4首は、研究者の誰も磐姫皇后の歌だと見ていません。「釈注」で伊藤博が「(磐姫皇后の歌)4首は、漢詩の起承転結を踏まえた構成や洗練された修飾語の使用から見ても、後代の作品である。おそらく過去の逸話に仮託した後人の作品であろう」と既(すで)に述べているように、こうした解釈が研究者の間で広く支持されているのです。でも過去の逸話とは、①「磐姫皇后の嫉妬譚」なのか②「軽太子と軽皇女の悲劇譚」なのかを、伊藤博自身も明らかにしていません。私が記紀の逸話と歌謡を調べたところでは、「磐姫皇后の嫉妬譚」は当てはまりませんでした。「軽太子と軽皇女の悲劇譚」の方が逸話もふさわしく、万葉集には「軽太子と軽皇女の歌謡」がそれぞれ類似歌として載ってさえいました。ところが、軽太子の歌謡は「泊瀬川を舞台とする歌」でした。さらに軽太子が使用した枕詞「あしひきの」は、万葉集で大津皇子が最初に使用した枕詞に思えました。過去の逸話は「大伯皇女と大津皇子の悲劇譚」をさえ、喚起させるものだったのです。この点について万葉集編纂者自身は、巻1、巻2の中で、何か意図的な展開を示していないか。それを論じて見たいと思います。

 万葉集巻2(相聞の部)の巻頭歌「磐姫皇后の歌4首」について、歌の「題詞」と「左注」に従い真面目に読み解くと、狐に化かされたような気分にさせられます。編纂者の論理が矛盾しているからです。その巻2巻頭歌4首に関係する「題詞」と「左注」を下記に再掲して見ます。
85番の題詞→「磐姫皇后の歌4首」
●85番(4首の最初の歌)
   君が行き 日(け)長くなりぬ 山尋ね
       迎へか行かむ 待ちにか待たむ
85番の左注
「(この歌は)山上憶良臣の「類聚歌林」に載っている」

  「題詞」と「左注」を記載したのは、編纂者です。「磐姫皇后の歌4首」と題詞に記すからには、編纂者が「磐姫皇后の歌」だと確信をもって記載したのです。さらに左注で、山上憶良臣の「類聚歌林」を持ち出して最初歌(85番)の出典根拠を注釈したと言えます。最初歌が「磐姫皇后の歌」に間違いないと、「左注」で「題詞」を補強したのです。そして読み進めると、3番目の歌には「或る本にいわく」と題詞して類歌を掲げ、「(出典根拠は)古歌集である」と「左注」が続きます。編纂者は3番目の歌に、類歌があると例示して見せたのです。このような展開の後に、編纂者は最重要な事を持ち出します。4首の最初の歌(85番)に戻って、ほぼ同一の歌謡が古事記の允恭天皇代にあると、後出ししたのです。それが「軽皇女の歌」です。類歌扱いで持ち出していますが、3番目の歌の類歌扱い(題詞)とは別格です。「軽皇女の歌」の題詞は、際立って長い。「磐姫皇后の歌」の題詞と較べても段違いです。それを再確認の意味で下記に挙げて見ます。

90番の題詞(私の要約で)
「古事記によれば、允恭天皇の時代に軽太子と軽皇女が兄妹であるにもかかわらず密通した。このため軽太子が伊予に流罪となった。その時、軽皇女が軽太子への思慕に耐えかねて追いかけて行った時に詠った歌」
 ●90番(85番の類歌として取り上げている)
  君が行き 日長くなりぬ山たづの
       迎へを行かむ待つには待たじ
90番の左注(私の要約で)
 「古事記と類聚歌林の説明はそれぞれに違い、作者も別である。そこで日本書紀を調べると、磐姫皇后の嫉妬譚と軽太子と軽皇女の密通譚は、書紀にも確かにある。しかし、(日本書紀の)逸話はどちらも微妙に違い、また該当歌は(日本書紀の)2つの逸話のどちらにもない」

 万葉集巻2(相聞の部)の巻頭歌「磐姫皇后の歌4首」は、編纂者が「磐姫皇后の歌」だと題詞で既に言い切っています。さらに4首の最初歌は山上憶良の「類聚歌林」が出典根拠だと注釈して、題詞を補強したのです。続いて3首目の歌では、「或る本の歌にいわく」と類歌を持ち出し、「古歌集」が出典根拠だと注釈しています。「磐姫皇后の歌4首」の1首に対する類歌の例示です。次に上記の90番が、85番の類句のごとく登場したのです。
 しかし、意味は全然違います。編纂者は題詞で「古事記によれば…」と「軽太子と軽皇女の逸話」を持ち出して、「磐姫皇后の歌4首」の最初歌に戻って話を展開します。それは1首の話のようで、「磐姫皇后の歌4首」に関係する話です。つまり歌を形成する逸話の話なのです。「類聚歌林」が出典根拠の「磐姫皇后の歌」に対して、古事記が出典根拠の「軽皇女の歌」を、最後になって後出ししたのです。
 編纂者は2つの情報を知っていて、「磐姫皇后の歌4首」だと既(すで)に判断を下していたはずなのです。だからこそ、巻2最初の天皇代は「仁徳天皇」となっているし、題詞も「磐姫皇后の歌4首」となっていたのです。にもかかわらず編纂者は、最後の左注で「出典根拠とした類聚歌林と古事記では食い違いがある。そこで日本書紀を調べると…」と、初めて食い違いを承知したかのような対応です。そして「左注」では、とても長い注釈を続けて「日本書紀では、どちらの説も裏付けられなかった。(結局何が正しいかよくわからない)」と、結論します。万葉集巻2相聞の部の巻頭歌を、真面目に読み進めて来た人を、煙に巻いてしまうのです。煙に巻きながら、「磐姫皇后の歌4首」とした編纂者の意図は変更されていないのです。

 「磐姫皇后の歌4首」は、古事記の出典根拠を借りた「軽太子と軽皇女の悲劇譚」こそが、ふさわしい。先に私はそう述べて来ましたが、私自身も違うことを考えているのです。事実に基づく逸話と言うならば、それは「大伯皇女と大津皇子の逸話」以外にあろうか。と私は、考えているのです。そして万葉集編纂者自身も、万葉集巻1と巻2の中で引用文献を通して「大伯皇女と大津皇子の逸話」に結び付けようと意図している。と想像するのです。このことを、引用文献の解釈をもって次に論じて行きます。

 山上憶良の「類聚歌林」(9)

軽太子と軽皇女の物語(4)
06 /18 2022
       山上憶良の「類聚歌林」(9)
 軽太子と軽皇女の物語(4)
 「軽太子と軽皇女の物語」の最初歌が「軽太子のしらげ歌(記79番)」ならば、最後歌は「軽太子の読歌(よみうた)(記90番)」です。その同一歌とも言える類似歌が、万葉集巻13にあります。この歌も私が既に解釈を終えたものですが、以下に再掲して見ます

13-3263(相聞歌)
こもりくの泊瀬の川の
上(かみ)つ瀬に い杭(くひ)を打ち
下(しも)つ瀬に 真杭(まくひ)を打ち
い杭には 鏡を懸(か)け
真杭には 真玉を懸(か)け
真玉なす わが思ふ妹も  :吾が思ふ妹(記歌謡)
鏡なす わが思ふ妹も   :吾が思ふ妻
ありと 言はばこそ    :言はばこそよ
国にも 家にも行かめ   :家にも行かめ
誰故(だれゆえ)か行かむ :国をも偲(しの)はめ

「左注」
 古事記を調べると、この歌は「軽太子が自殺する時に作ったもの」だと言う

 万葉集歌と記歌謡の違いは上記の4か所ですが、ほとんど同一歌と言ってよいぐらいです。この歌謡が允恭天皇代にあるのは、とても不自然です。伊予に流罪となった軽太子が、同地で軽皇女と再会したのです。その伊予での最後歌が、「こもりくの泊瀬川」を詠っているのです。泊瀬川が出てくる理由(わけ)が全く謎です。また、この歌謡には「読み歌」と言う名称が付いています。「琴歌譜」にも「余美歌」と言う同一名称の歌謡が登場します。資料がなく、それ以上調べることができませんでしたが、何か関連があるのかも知れません。さらにこの「読み歌」は、古事記の中でも際立って特異な歌謡です。とても允恭天皇代の古い歌謡とは思えません。「上つ瀬に」と「下つ瀬に」…このような対句表現は、漢詩の教養を経なければ使用できないものです。また、「言はばこそよ…行かめ」などの表現も漢詩的です。他の記歌謡には見られない表現が満載です。
 日本書紀で「詩賦の興りは大津皇子より興れり」と言っているぐらいですから、漢詩の表現を駆使した長歌(歌謡)ならば、天武天皇代以降を想定しなければなりません。その大津皇子に結びつく「読み歌」ではありませんか。

読み人知らず

 東北の田舎に暮らす退職者です。こんな年齢で万葉集を読み始め、読むほどに好きになりました。たくさんの人が万葉集について語っています。
 私も、巻13にある「読み人知らずの歌」を語りたくなりました。誰にも読まれずしんしんと埋もれていくとしても…