8月の閑話

15 閑話
08 /06 2018
   原爆忌を瞑目する

   水ヲ下サイ
水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
飲マシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
助ケテ 助ケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー
(以下略)

ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼(ヤ)ケテ
フラフラノ
コノメチャクチャノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ

 広島で被爆した原民喜という作家の詩です。原爆の詩は「にんげんをかえせ」に代表される峠三吉が有名ですが、今では両名とも過去の人になり、さらに忘れ去られた詩人となっているでしょうか。私の好きな作家。原民喜の詩を引っ張り出して見ました。
今日8月6日は、73年前、広島市に原爆が投下された日です。累計32万人が犠牲になったそうです。その日を思い、私は今、瞑目しています。しかし、酔って瞑目している私は、馬鹿者です。さらに気持ちが大きくなって酔言を吐こうとしています。許してください。

 今日、日本国はアメリカ国の核の傘下に核保有禁止の主張さえ止めています。「原爆(核)をゆるさない!」という主張は、被爆した広島や長崎の被害者の声であって、今も日本国の主張ではありません。その被害者の声も「誰を許さないのか」ではなく、「原爆(核)を許さない」のです。
 ああ!しかし…です。私は、中学生の時に図書室の一隅で見た原爆写真集が忘れられない。むごたらしい、無残な人間の姿がトラウマのように甦る。今も木造校舎の奥の薄暗い図書室が思い浮かぶ。それが原民喜の詩が書いている世界です。カタカナという文字でしか伝わらない異世界の暗さなのです。思い出したくない。見たくない。異形な世界です。あの世界を体験した人々ならば、あんな世界にした人間を、投下した国を絶対に許せないはずです。絶対に!そこから出発した被爆者の主張だったはずです。その思いを始点にして、長い時の果てに「核兵器」という凶器を絶対に許さないと、世界に主張しているのです。広島も長崎も毎年定時の祭りをしているのではありません。亡くなった人々の地獄を鎮魂しつつ、世界に主張しているのです。「原爆(核)を許さない」と。

 その相手国アメリカは、原爆投下が戦争終結を早めて多くの人命を救ったと総括しています。新兵器の効力を世界に見せつけるためにやったに過ぎないくせに。多くの人命を救ったとは!東京大空襲以下の非道さもくやしいですが、何という言い草でしょう。今もってアメリカは、原爆投下について日本国に謝罪表明しているわけではありません。
 しかし、それならば日本国はどうでしょう。日本国の戦争総括はどうでしょうか。日本は朝鮮半島を30年以上に渡って領土とし、中国とは第一次山東出兵から18年、日中戦争から8年の長きに渡って戦争したのです。アメリカとは、真珠湾奇襲から終戦まで4年に満たない期間の戦争でした。実は中国との戦争は、戦争ではなかったのです。最後通牒や宣戦布告が一度もなされていないので、戦争を行ったのではないのです。日本軍から見ればテロリストの退治だったのです。中国の首都南京を占領した時も、戦争と言うよりはテロリストの退治でした。テロリストを戦いに敗れた相手国の捕虜として遇することなどありえません。テロリストは犯罪者だからです。勝敗は時の運、敗者に礼を持って遇す。日本軍の礼節は、それまで他国よりも厚いものがあったのです。しかし、相手は軍隊ではなかった。危険な犯罪者でした。殺すしかない対象だったのです。仲間の居場所や組織を、どんな拷問、手段をつかっても突きとめる。そのような軍隊(組織)の認識が浸透していたのだと思います。
 日本国がアジアへ進出して、隣国に残虐な行為をしたという歴史観は自虐的だ。いつまでもとらわれるべき認識ではない。慰安婦問題だ、南京虐殺だと真実も不明なのに、敗戦後の日本人は何を自虐的に反省してきたのか。復興を果たした今、次世代を担(にな)う若者たちに、こんな戦争の罪意識を持たせて、アジアの隣国と交流させてはいけない。言うべきことは反論し、もっと堂々とつきあう日本国民を養成していくべきだ…歴史教科書問題の中にある国の主張に思えます。
 
 原民喜の「夏の花」を読むと、原爆によって生じた悲惨がしみじみと分かります。彼の言葉には、誇張や感情の起伏が見られません。すでに妻の死によって透明化していた彼自身の虚無が、原爆の悲惨を逆に客観化しているように思えます。それまでは、日常の世界が彼を脅かし続けてきたのに、原爆の悲惨世界が逆に彼の神経を正常なもの(冷静な視線)に覚醒させたのです。そんな不思議な逆転が、原民喜の「夏の花」や一群の「原爆詩」には表れています。その彼は被爆後6年目の3月、中央線吉祥寺と西荻窪間の線路に身を横たえて自死してしまうのです。彼と親しんだ若者たち、遠藤周作や梶山俊之も既に鬼籍に入ってしまいました。私も、彼の作品に出逢ってから半世紀が過ぎてしまいました。8月6日の過ぎて行く深夜、彼の詩碑を挙げて、酔いを正してそっと合掌するばかりです。

 遠き日の
 石に刻み砂に落ち
 崩れ墜つ天地のまなか 
 一輪の花の幻
 
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読み人知らず

 東北の田舎に暮らす退職者です。こんな年齢で万葉集を読み始め、読むほどに好きになりました。たくさんの人が万葉集について語っています。
 私も、巻13にある「読み人知らずの歌」を語りたくなりました。誰にも読まれずしんしんと埋もれていくとしても…