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2017-06-22

「うつそみ」と「うつせみ」(16)

 天平元年己巳、摂津国班田史生丈部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)、自ら經(わな)き死(みまか)りし時、判官大伴宿祢三中の作れる歌一首並びに短歌

雨雲の 向伏す国の
武士(もののふ)と いはゆる人は
皇祖(すめろぎ)の 神の御門(みかど)に
外重(とのへ)に 立ちさもらひ
内重(うちのへ)に 仕へ奉り
(以下略)
あらたまの 年経るまでに
白たへの 衣も干さず
朝夕に ありつる君は
いかさまに 思ひませか
うつせみの(鬱蝉の) 惜しきこの世を
露霜の 置きて往(い)にけむ 時ならずして
                       (3-443)

(反歌)
昨日こそ君は在りしか思はぬに 
              濱松が上に雲とたなびく
                      (3-444)

いつしかと待つらむ妹に玉梓(たまずさ)の 
              言だに告げず往にし君かも
                      (3-445)

 この挽歌は、摂津国の班田の書記官だった丈部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)という者が自殺した時に、判官だった大伴三中が作ったというものです。長歌の前文からは、丈部龍麻呂が、東国から召し出されて朝廷の内外の警護に奉仕したことが詠われています。読みようによっては、龍麻呂によせて皇祖へのあるべく献身を讃辞したともとれます。後文では「年が改まるまでも、衣を洗い干す間もなく朝夕勤務に励んでいた君は、一体どう思われて(うつせみの)惜しいこの世を後に置いたまま逝ってしまったのだろうか。まだ死ぬ時ではないのに…」と哀悼しています。
 この長歌に「鬱蝉」が使用されているのです。さらに前の歌を見れば、神亀6年己巳、左大臣長屋王の賜死に対する挽歌(441番)、同じく賜死した膳部王(長屋王の長子)への挽歌(442番)があるのです。膳部王を悲傷(かなし)める歌を次に挙げて見ます。

 世間(よのなか)は空しきものとあらむとそ
                この照る月は満ち欠けしける
  
右の作者はいまだ詳(つまび)らかならず

 世の中は空しきものと…これは旅人の「凶問に報(こた)ふる歌一首」の頭句と同じです。それに続く謎めいた死(自殺)者への挽歌を大伴三中が詠い、「うつせみ(鬱蝉)」が使用されているわけです。この歌もまた、長屋王の死に関わった挽歌である可能性が高く、読みようによっては「長屋王に仕えた東国武士が、自死した逸話」とも取れるのです。
 長屋王の死に関連する挽歌と、その中で使用される「世の中は空しきものと…」という現世観、そして「鬱蝉」という言葉が入って…詠われた時期と言い、歌の並びと言い、その言葉「鬱蝉」と言い、暗合するものがあると感じるのです。

 すると、笹朝臣金村の使用した「うつせみ(空蝉)」は、長屋王の死と関連するでしょうか。それとも何か発見できることがあるのでしょうか。それを見て行きます。

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2017-06-21

「うつそみ」と「うつせみ」(15)

 万葉集で、無常を含んだ特別な現世観…と言えば、次の歌が思い浮かびます。

 世の中は空しきものと知る時し
                いよよますます 悲しかりけり (5-793)

 家持の父、大伴旅人の歌です。旅人も万葉集に名を残す偉大な歌人です。728年(神亀5年)大宰師(大宰府の長官)に任命された旅人は、妻子を伴って九州に赴任しますが、その年に妻を亡くしてしまいます。妻の名は大伴郎女。家持の実母ではないようです。大伴家の氏上(棟梁)である旅人の長男として、家持は本妻の下で育てられたのです。それで、「藤原二郎が慈母を喪へる患(うれい)を弔へる歌」が実母の挽歌だと解される由縁なのです。家持は養母とともに父の赴任に同行し、直後に九州の地で養母を失うのです。10歳前後のことと思われます。家持は、養母の死に会い、そして悲嘆する父旅人を直近に見たのです。
 上記の旅人の歌は、巻5(雑歌の巻)の冒頭歌です。「大宰師大伴卿、凶問に報(こた)ふる歌一首」という題詞によって始まります。文言が次のように続きます。長い文章ですが、その一部と上記の歌を入れて次に引用してみます。

「大宰師大伴卿、凶問に報(こた)ふる歌一首」
禍故(かこ)重なり、凶問しきりに集る。永(とこしへ)に崩心の悲しみを懐(いだ)き、独り断腸の涙を流す…(以下略)

 世の中は空しきものと知る時し
               いよよますます 悲しかりけり
  神亀5年6月30日
 けだし聞く、四生の起滅することは、夢の皆空しきに方(たくら)べ、三界の漂ひ流る…(以下略)

 この旅人の歌に続いて山上憶良の長歌「日本挽歌」以下の連作歌が10数首並ぶのです。制作年は、神亀5年7月21日、筑前国守山上憶良となっています。
 この巻5冒頭の歌の流れを読むと、疑問がわいてきます。旅人は、赴任早々に妻の死に遭うのです。その直後の歌にしては、「禍故(かこ)重なり、凶問しきりに集る。」という出だしからして不自然です。良くないことが重なり、凶報が集まったというのです。一つや二つではない出来事があったのです。続く憶良の尋常でない数の歌群…弔問として繋いだ憶良の歌なのであれば、「日本挽歌一首」の意味は何でしょう。悲しみや義憤、空虚感が混じるこれらの歌は、一女性への悔み歌とはとうてい思えません。それに、筑前国守山上憶良がいくら都からの知り合いであった言え、大宰府長官赴任間もない時期にこんな大量の歌が届けられるとは思えません。旅人と憶良は、九州で知己となった可能性だってあるのです。
 旅人と憶良が共有する禍故、凶問ならば、神亀5年9月の皇太子の死、その翌年神亀6年2月に生じた長屋王の変を無視するわけにはいきません。特に長屋王一族の死は、二人にとっても凶問に違いなかったと思われます。憶良は長屋王邸で七夕歌(8-1519)を詠っており、親和する実力者であったと思います。旅人には、藤原四氏の横暴を愁いる禍故だったに違いありません。
 旅人にとっては、九州への下向、直後の妻の死があり、その後に皇太子の死、長屋王の変という朝廷の大事件があったのです。これらの出来事は、1年にも満たない中で起きたことです。
 巻5は、旅人が大宰師に赴任し帰京するまでの歌、その中で親交をもった憶良の歌(天平5年頃まで)を載せています。この冒頭を飾る旅人の無常観を湛(たた)えた歌が、家持に強く影響を与えている。「世の中は空しきもの」と知る時「いよよますます悲しい」という現世観が、家持の歌に引き継がれていったと考えるのです。その歌の作成年次は神亀5年とありますが、1年後の天平元年であろうと推測するわけです。史実を並べて、題詞に続く長文を解読し、また巻5の構成から眺めても、旅人の冒頭歌と憶良の日本挽歌は、長屋王の悲劇をも踏まえていると考えるのです。

 「うつせみ」から話が別な時点に飛んでしまったかのように思われるかも知れませんが、全然飛躍したことではありません。この次に「大伴宿祢三中の歌」が続くのです。
2017-06-18

「うつそみ」と「うつせみ」(14)

 大伯皇女の歌 →「うつそみの人なるわれや…」(2- 165)
 大伴家持の長歌→「うつせみの人なるわれや…」(8-1629)

家持は、「うつせみ(打蝉)の人なるわれや」と、大伯皇女と同じ章句を用いているのです。740年(天平11年)頃、坂上大嬢に宛てた長歌相聞の中に見られるものです。家持22歳頃の歌です。大伯皇女の歌から50数年を経ていますから、模倣したとすれば勿論家持の方です。そんな昔の歌を家持が知っているわけも無く、偶然言葉が重なったのではないか。という見方もあるかも知れません。しかし、もっと後代にできた「歌経標式」にも、大伯皇女の挽歌が載っています。大伯皇女の歌が奈良時代にも広く知られていたことが窺えるのです。私の論じて来ている巻13の歌でも、家持歌との類歌や枕詞の暗合するものが多く認められました。家持は、当然「2ー165番」歌を知っていたと思います。
 すると、家持は「うつそみ」を知っていて、「うつせみ」を同じ意味で使ったと理解できるのです。この時点で家持は、2つの言葉を区別していなかったことがわかるのです。その家持が、ずっと後代に作った本人の長歌で2つの言葉を別々に使い分けているのです。その長歌を再掲します。

19-4214
 題詞「挽歌一首 短歌併せたり」

 天地の 初(はじめ)の時ゆ
 うつそみの 八十伴(やそとも)の緒(を)は
 大王に まつろふものと
 定まれる 官(つかさ)にしあれば
 天皇(おほきみ)の 命畏(みことかしこ)み 
 夷離(ひなざか)る 国を治むと
 あしひきの 山川隔て
 (以下略)
 世間(よのなか)の 憂けく辛(つら)けく
 咲く花も 時に移ろふ
 うつせみも 常(つれ)なくありけり
 (以下略)

 上記歌の「うつそみ」の部分は、金村や家持の他の歌で「ますらをの」を入れていたのです。この歌では「世の中の」と訳して、歌が通じて行きますが、本来の「うつそみ」の意味からは微妙な使い方に思えます。三山歌の「うつせみも妻を争うらし」や高市皇子の挽歌「うつせみと争ふ」にある言葉と似ている使い方だからです。それが、「うつそみ」なのです。さらに後半で、「うつせみも常なくありけり」と異なった言葉を用いているのです。この挽歌は、左注で「藤原二郎が慈母を喪へる患(うれい)を弔へる」とあります。他家の母の死(藤原二郎の慈母)を悼んだ歌に思えますが、家持の実母であるという解釈もあるのです。単なる儀礼的な歌ではないようです。
 二つの言葉を違えたのは、それなりに理由があったと思えるのです。それが謎なのです。私は、「うつそみ」が高貴な(作者よりも)女性に対する挽歌での「うつせみ」の用法として表記された…という想像をしますが、単なる思い付きでしかありません。問題は、家持なのです。

 「うつせみ」という言葉を万葉集中で使用した人は、家持がダントツに多いことは先に挙げました。16回も使用し、その内12回が長歌の中です。家持の最初の長歌と言われる中に、既に「空蝉」が使用されています。天平11年頃の作歌と言われる「亡りし妾(おみなめ)を悲傷する歌」です。その中の短歌では「うつせみの世は常なし」と詠い、長歌では「うつせみの借れる身なれば」と詠っているのです。挽歌の使用は、巻2の使用と同じです。この中で「うつせみ」は無常を含んだ特別な現世観がすでに含まれています。
 その現世観に注目してさらに論じて行きます。
2017-06-14

「うつそみ」と「うつせみ」(13)

 「うつそみ」6例のほぼ全例があり、かつ「うつせみ」の使用例がある巻2に戻って見ます。これらの言葉を使用した作者は次のとおりでした。

 巻2の「うつそみ」と「うつせみ」の使用者と表記(歌番)
「うつそみ」(5例)         「うつせみ」(4例)
①大伯皇女 「宇都曽見」(165番)  ①婦人の歌「空蝉」(150番)
②人麻呂  「宇都曽臣」(196番)  ②人麻呂 「打蝉」(210番)
③編者資料 「宇都曽臣」(213番等) ③編者資料「打蝉」(199番) 

 現在の万葉集解釈では、「うつそみ」も「うつせみ」も「現世」を意味とする同じ言葉でした。「うつそみ」から「うつせみ」へ変化した言葉だと解説されています。
 ところが巻2を注意深く読むと、この二つの言葉を区別していた者がいたのです。一人は人麻呂で、彼の長歌で二つの言葉を使い分けていました。もう一人は巻2編纂者とも言うべき人です。わざわざ「或本の歌」なる資料をもって、二つの言葉を人麻呂の歌に区別して付加していたからです。さらに万葉集全体でも、違いを区別した人がもう一人いました。一つの長歌に二つの言葉を載せている大伴家持です。その家持は、集中で「うつせみ」を一番多く使用している人でもあります。

 巻2の「うつそみ」は、上記の通り一字一音式の漢字表記です。この表記は、「うつそみ」も「うつせみ」も巻17以降に統一して見られるものです。巻17から巻20までは、家持が作者と言っても良いぐらいに深く関わっています。また、一字一音式の漢字表記は、仮名表記に一歩近づいた後世のものにも思えます。「霹靂(かむとけ)」のような一字二音式の表記が先にあった。というより、中国語音の漢字一字が日本語では二音になりやすかった。その漢字を日本語に当てはめて読み下す訓読の過程があった。神語の章句で論じた私の考え方で言えば、大伯皇女が自分の歌に一字一音式の表記をするはずがないのです。その後に登場した柿本人麻呂が、どう表記できたかはいざ知らず、巻2を編んだ後世の編纂者ならば、二通りの表記が可能だったと思うのです。
 「宇都曽見」は後世の表記で、それをわざわざ巻2の「うつそみ」に当てはめた。その結果、「うつそみ」の古い文字(漢字の表意性)の痕跡が消された…なぜそんな操作をしたのかは知れませんが、そんな手の込んだ表記を巻2に意図的にやった人がいたのだとしたら、それは編纂者を置いていないと言いたいのです。人麻呂が自分の歌に「うつそみ」や「うつせみ」を使用していないにもかかわらず、「一に云く」(199番)と「打蝉」を追記したり、或る本の歌として「宇都曽臣」(213番等)を追加することはありえないからです。
 巻2編纂者が、同じ意味である「うつそみ」と「うつせみ」を区別し、さらに文字表記にも手を加えたのだと仮定します。すると、こんなことにどんな意味が生じるのでしょうか。
 照準は、きっと大伯皇女の歌(165番)にあるのだと思います。最初に一字一音式の表記に変えられた「宇都曽見」だからです。もしかすると、坂上郎女の歌の「鬱瞻」は、大伯皇女の歌の「うつそみ」(あるいは「うつせみ」)に該当したかも知れないからです。「うつそみの人なる我や」と呪詞を発する嘆きの人こそ、大伯皇女がふさわしいからです。「この世の私」ではありません。「鬱瞻の私」ならば、魂を彼方に馳せて見つづける…「見れど飽かずの私」です。この世に正気を失っている人を指しているのです。「うつそみ」や「うつせみ」が、当初は挽歌に登場する言葉なのも道理に思えます。このように想像できるほど、坂上郎女の歌の「鬱瞻」が言葉の意味も文字の表意性も、大伯皇女の歌にある「宇都曽見」にぴったりするのです。
 そのような識別ができ、巻2を含めた万葉集編纂に深く関係してくる人は、大伴家持を置いて他にはいない。このような直観(大発見)が生じたのです。それならば、大伯皇女の歌と家持の歌に言葉(章句)の接点はないか。と、次に調べて見たいと思います。
2017-06-13

「うつそみ」と「うつせみ」(12)

   なぜ、坂上郎女の「うつせみ」は「打蝉」でなく「鬱瞻」なのか。
 「うつそみ」は6例が挽歌の中で使用され、「うつせみ」も巻2では、挽歌から始まっています。その挽歌で最初に「うつせみ」を使用した歌は、天智天皇崩御時の婦人の歌(2-150)でした。その長歌を挙げてみます。

 うつせみ(打蝉)し 神にたへねば
 離(さか)りゐて 朝嘆く君
 放(はな)れゐて わが恋ふる君
 玉ならば 手に巻き持ちて
 衣(きぬ)ならば 脱ぐ時もなく
 わが恋ふる 君ぞ昨夜 夢に見えつる

 坂上郎女の「鬱瞻」を使用した歌(4-733)を並べて見ます。家持が一度絶えていた娘大嬢と相聞往来を復活した時に、同女が家持に贈った3首の1首です。天平14年前後の歌と見られます。

 玉ならば手にも巻かむを うつせみ(鬱瞻)の世の人なれば手に巻き難し
 
 郎女の歌の後に、家持が和した歌(返歌)が2首続いてあります。その1首(4-733)に「うつせみ」が使用されているので、その歌も挙げます。

 うつせみ(空蝉)の世やも二(ふた)行く何すとか 
                   妹に逢はずてわが独り寝む

 天平時代に贈答された郎女と家持の歌は、相聞往来の範疇でなされています。すでに挽歌に使用された「うつせみ」ではなく、「現世」の意味が強く反映しているかに思えます。なのに意味とは不似合いな「鬱瞻」が出現するのです。その郎女の「玉ならば…」の上句は、巻2の婦人の歌を連想させます。たかが「一文句」ですが、されど「一文句」です。
仮に郎女が婦人の歌を知っていたとするならば、「打蝉」の表記が自然ではないか。それにまた、家持の返歌はなぜ「空蝉」なのか。
 そもそも天智天皇が崩御した時の婦人の歌が記録にあったか、あるいは伝承歌として伝わったかは、とても疑問です。懐風藻では、百編(たくさんの意味)の漢詩が壬申の乱で散逸したと述べているからです。乱は、天皇の崩御後半年で起きています。喪がりも明けぬ時期であったのです。そして天智側は滅び、京は遷都されたのです。反乱に近い戰を勝ち取った天武天皇が、喪がりの歌を収集したなどと考えることはできません。そんな眉唾の巻2にある挽歌です。
 ですが、万葉集の記載をそのまま信じて言えば、婦人の歌の一句を模倣したかも知れない郎女が、なぜ「打蝉」を表記しないのか。これが、1番目の疑問になります。そしてまた、私の「表記論」から言えば、婦人の挽歌でこそ「鬱瞻」がふさわしいのに、なぜ「打蝉」なのか。これが2番目。さらに「打蝉」表記の歌を持っている家持が、「打蝉」でもないし郎女の「鬱瞻」でもない「空蝉」をなぜ使うのか。これが3番目。これから論じる問題です。
プロフィール

読み人知らず

Author:読み人知らず
 東北の田舎に暮らす退職者です。こんな年齢で万葉集を読み始め、読むほどに好きになりました。たくさんの人が万葉集について語っています。
 私も、巻13にある「読み人知らずの歌」を語りたくなりました。誰にも読まれずしんしんと埋もれていくとしても… 

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