2018-06-20

枕詞「神風の」(21)

 持統天皇の諡号と天照大神
 天皇が崩御した後に、その人の生前の偉業や高貴さを讃えて表わす称号を諡号(しごう)と言います。諡号には、漢風諡号と国風諡号の2種類があります。例えば、初代天皇は神武天皇であり神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)であると言うふうに2つの諡号があるのです。前者が漢風諡号で後者が国風諡号です。
 ところで、崩御後の葬送儀礼で諡号が贈られた天皇は、記録によれば持統天皇が初見なのです(続日本紀大宝3年)。他方、「釈日本紀」の引用された「私記」に、「師説」として初代神武天皇から元正天皇までの諡号は、淡海三船が一括撰したとあるのです。それは、後世に懐風藻の編纂者とも言われる淡海三船の手によって、歴代天皇の諡号が作られたとも解釈できる記事なのです。つまり、記紀の天皇の諡号は、記紀編纂前に一人の創作で作られた可能性があると。
 そんな中で持統天皇の国風諡号だけは、崩御後の火葬儀式で奉ったという記録があるのです。淡海三船が一括撰する以前に、実際の葬礼場面で贈られた諡号と認められるのです。歴代天皇で持統天皇が、諡号を初めて得た天皇ではないかと注目される由縁です。
 「高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめ)」が、持統天皇の国風諡号です。生前の偉業と徳を讃えた名称だと言うのならば、持統天皇が「高天原」世界を広めたと取れる諡号です。この程度の照合を持って軽々しく推論を立ててはいけない。と言う研究者の暗黙の自戒を感じます。だから、多くの研究者は知っていても天照大神と持統天皇を結び付けた指摘など誰も行いません。でも普通に考えれば、この諡号は持統天皇と高天原と結びつけて高徳を讃えているのですから、天照大神を持統天皇と想像するのが最初の一歩ではないでしょうか。天照大神は女神です。日本の神の最高神はなぜ女神なのか?という疑問を抱く人は誰もいません。義務教育の歴史では、邪馬台国の女王卑弥呼を持ち出して、何となく大昔は女性が祭主になり、神のお告げをもって人々を教導支配していた…といった漠然とした理解で納得していた気がします。
 あえて私の想像を展開して見ます。天武天皇の第一皇女が、東国の出先とも言える伊勢国に最初に降臨したのだから、彼女こそ天照大神として祀られたのだ。と言うのが私の主張です。これに加えて、天照大神が伊勢に鎮座する由来譚について、ヤマトヒメノミコトの巡行経路を見ると、初代大伯斎宮の行路と持統天皇の伊勢巡行経路が混合して関わっていることが分かりました。天照大神が伊勢に鎮座するに当たっては、さらに持統天皇が加わって来たのです。その意味を推測すれば次のとおりです。

 伊勢国の人々にとっての天照大神とは、天武天皇(神)が派遣した女神(初代大伯斎宮その人)でした。大伯斎宮は12年間伊勢斎宮を務めた後、大津皇子の謀叛事件に関わって去り、以後伊勢斎宮は廃宮となったのです。5年間、伊勢国には天照大神が存在せず、暗黒状態が続いたことになります。そこに持統天皇の伊勢巡行が行われたのです。持統天皇の巡行によって、新たな伊勢神宮の再興が決定されたのだということが、私のさらなる想像です。持統天皇の出現は、伊勢国の人々にとっては天照大神の再出現だったに違いありません。その天照大神は、新たな神宮の創建地を「五十鈴川の川上の大山中」に決定したのです。万葉集巻13-3234で詠われた「山辺の五十師の原」とは異なる場所に再建されることになったのだと考えます。くり返し述べると、伊勢神宮は一度廃宮されて、持統天皇によって復活したのです。持統天皇の伊勢巡行こそが、天神地祇の再確立に向けた政策の実力行使だったのです。それは、神を祀る伊勢国の人々にとっては、天照大神不在の暗黒に再び天照大神が出現し、光を取り戻したことになるのです。

 記紀の神話に描かれた天照大神は、すでに述べたように3つの場面「(天の岩戸までの)姉神と弟神の物語」、「天の岩戸物語」、「天孫降臨の物語」にしか登場しませんでした。この最初の物語が大伯斎宮と大津皇子の逸話であり、残る2つの物語が持統天皇の寓話であると想像するのです。記紀神話の天照大神には、大伯斎宮と持統天皇が投影されている。天の岩戸に籠って消えた天照大神は初代大伯斎宮であり、八百万の神々の懇願により天の岩戸から現われた天照大神には、持統天皇が象徴されているのです。天孫降臨が持統一系の天皇皇位継承を正統化していることは、すでに述べたことです。

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2018-06-19

枕詞「神風の」(20)

 伊勢神宮について(10)
 日本書紀の崇神天皇代にあるトヨスキイリヒメノミコトの逸話は、朝廷に祀られるべき天照大神が朝廷外に出た由来譚でした。歴史上の実話で探すならば、それは泊瀬斎宮に籠った大伯皇女に重なる話でした。同様に垂仁天皇代にあるヤマトヒメノミコトの逸話は、各地を巡行して伊勢に鎮座する由来譚です。歴史上の実話で探せば、持統天皇の伊勢巡行しか見当たらないのです。
 その経路を、①ヤマトヒメノミコトの巡行経路、②大伯皇女の伊勢行路、③持統天皇の伊勢巡行で比較して見ます。さらに④伊勢神宮の「皇大神宮儀式帳」によるヤマトヒメノミコトの巡行経路を参考に載せて見ます。

①書紀のヤマトヒメノミコトの巡行経路
  「笠縫邑→宇陀→近江→美濃→伊勢」
②大伯皇女の伊勢行路
  「泊瀬→宇陀→曽爾→飯野→多気(磯宮)」
    注:確たる根拠のない私の想像経路です。
③持統天皇の伊勢巡行経路
  「大和→伊賀→(近江)→(美濃)→伊勢」
 持統天皇の巡行時の経路は、「通過した神郡、及び伊賀、伊勢、志摩の国造らに冠位を賜い…」(書紀)とあり、さらに巡行の警備や労役等に参加した「近江、美濃、尾張等の国」の調役を免じたという記載を基に、その巡行に当たって駆り出された人々の国をも含めて広く経路を取り上げて( )を加えて見ました。

④「皇大神宮儀式帳」によるヤマトヒメノミコトの巡行経路
 「笠縫→宇陀→伊賀→近江→美濃→伊勢(鈴鹿・壱志・飯野・多気・渡会)」

 書紀のヤマトヒメノミコトの巡行経路は、やがて「皇大神宮儀式帳」の巡行経路に反映されて、より詳細に示されています。それは現在に継承されているものなのです。この経路が、伊勢斎宮大伯皇女の行路と持統天皇の伊勢巡行経路をミックスして、2つの由来を色濃く伝えていると強調したいのです。さらに深読みして行けば、「皇大神宮儀式帳」の伊勢国内での渡会に行き着くまでの経路が興味深いのです。参考にその部分を具体的に挙げて見ます。
「飯野の高宮→多気の佐々牟江宮→磯宮(多気郡明和町)→家田々上宮→五十鈴の川上の大山中(現在の伊勢神宮(内宮)」という順路なのです。大伯斎宮の時代の神宮(かむのみや)は、飯野郡あるいは多気郡の地にあったかのかも知れません。持統天皇の伊勢行幸は、新たな神宮の創建地を求めた旅だったとも言えるのです。

 次回は、初代斎宮から廃宮された大伯皇女、廃宮の再建を成した持統天皇という二人の女性の物語を、天照大神の神話に即して考えて見ます。
2018-06-17

枕詞「神風の」(19)

 伊勢神宮について(9)
 初代斎宮だった大伯皇女こそ天照大神だったと私は述べて来ました。書紀の崇神天皇代に記述された「天照大神をトヨスキイリヒメノミコトにつけて笠縫邑(かさぬいむら)に祀った」という逸話は、「大伯皇女の泊瀬斎宮」に暗合すると。「天照大神が皇女(トヨスキイリヒメノミコト)に託(つ)いている」とは、神と皇女が一心同体だったと見なせるからです。それは、大伯皇女が泊瀬斎宮に籠って「だんだん神に近づく」という表現と同様です。天神地祇の政策に立って理解すれば、伊勢国に赴く前に、大伯皇女は泊瀬斎宮で神になる訓練をしていたと言ってもいいくらいなのです。
 伊勢神宮は伊勢国に建てられた神社です。伊勢神宮を祀る伊勢の人々からすれば、そこに降臨した皇女が「天皇(神)の御杖代(みつえしろ)」なのだから、「女神」として崇(あが)めたはずなのです。だからこそ伊勢の神宮(かむみや)におられるのは天皇という神ではなく、「伊勢斎宮」という女神だったのです。そもそも天照大神とは、記紀の神話によって形成された概念です。記紀の成立は、大伯斎宮が廃止された後、数十年を経て出来たのです。その書物によって語られる神話世界です。すでに指摘したように3つの場面で語られている天照大神は、びっくりするぐらい希薄なイメージの神でした。 
 また、大伯皇女が伊勢斎宮だった期間、伊勢神宮(いせじんぐう)という呼称があったかも疑問です。日本書紀は、神宮を「かむのみや」と呼びならわしています。「じんぐう」と呼びならわすのは、文武天皇の即位とともに派遣された多紀皇女(斎王)の代から「いせじんぐう」と明確化したように思えるのです。「泊瀬斎宮」や「伊勢斎宮」という記述を見ても、当時は神職名を指すものではなくて「宮」の名称だった可能性もあります。つまり、伊勢斎宮そのものが神宮(かむのみや)だったかも知れないのです。伊勢神宮と斎宮寮の分離が最初からなされていたかは、大変疑問です。「天照大神をトヨスキイリヒメノミコトにつけて祀った」という表現は、次のヤマトヒメノミコトの場合も同様です。分離したら矛盾します。

 しかし、今は、天照大神が伊勢国に鎮座する話です。天照大神が朝廷から出た由来は、トヨスキイリヒメノミコトの物語によって語られていますが、伊勢神宮の由来譚とは別でした。書紀は、垂仁天皇代に「天照大神をヤマトヒメノミコトにつけて各地を巡行し、伊勢の渡会に鎮座した」と言う逸話を記述するのです。この意味を、持統天皇に照らして考えて見ます。

 天武天皇の天神地祇政策に基づいて、初代天神(天照大神)として伊勢国に降臨した大伯斎宮は、弟大津皇子の謀叛事件後、京に戻されます。謀叛の内容が密通であったとすれば、斎宮も同罪です。従って、穢れの付いた伊勢斎宮は廃止されたのだと思います。以後、書紀に記載がないのは、斎宮が選ばれなかっただけでなく神宮自体が放置されたのです。斎宮不在な神宮がそのまま維持できたとは思えません。廃宮となったのです。伊勢国にとっては、天照大神が隠れて(不在)暗黒の世界になってしまったわけです。
 しかし、天神地祇政策は、大和朝廷を神として全国に発信する祭式儀礼です。伊勢斎宮を不存在とすれば、政策は根本から崩れ去るのです。その政策の主体者だったかも知れない持統天皇にして見れば、放置するわけにはいきません。即位して2年後、持統天皇は伊勢行幸を計画します。これに対して中納言三輪朝臣高市麻呂が上表して反対します。1か月後、反対を押し切って持統天皇が行幸を実施すると、出発直前に「高市麻呂が冠を脱いで諌めた」と書記は記述します。「農繁期の農民を配慮して時期をずらすべきだ」という反対理由ですが、実際は「行ってはなりませぬ」という中止の諫言です。天皇に対して二度に渡る反対表明は異様です。にもかかわらず、熟慮し慎重なはずの持統天皇が強行したのです。単なる物見遊山の行幸な訳がありません。伊勢斎宮の復活を企画したと考えるのが自然です。
 その行幸は京(浄御原)を出て、伊賀、伊勢、志摩国を巡行したとあります。警備や労役に駆り出された民は、近江、美濃、尾張等の近隣国多数に及んでいます。3月6日に出発しほぼ2週間の旅を終えて帰京しています。巡行に当たっては、沿道の民に舞楽を見せて楽しませ、労苦を取らせた地域には種々の恩賞や物を与えて振る舞っています。並々ならぬ決意と配慮が窺われるのです。
2018-06-16

枕詞「神風の」(18)

 余談「持統天皇」について
 天武天皇下で推進された権力の中央集権化には、律令制度と天神地祇の二つの政策が両輪の働きをなしていました。天神地祇は天武天皇の政策と言われますが、皇后の関与が強いと思うのです。天神地祇は、大和朝廷を神として全国に発信する祭式儀礼であった。という仮定に立てば、大和には神々がすでにいたのです。だから新たな官制の神社を外側から作って発展させたのです。「伊勢斎宮」「諸社への幣帛」「竜田、広瀬社」等日本書紀天武天皇代に現れる初見記事を読むと、その思いを抱きます。祭式儀礼は、神社の格式化と同時並行で宮中儀礼にも反映されていきます。その一例として「吉野の盟約」を挙げて見たのです。父母を拝する従来の礼式から卑母を排除する新たな様式は、家内の序列を意識させ定着化させるものです。それまで根付いていた日本式儒教の「孝」の礼を微妙に変節させたのです。このような洞察力を持ち演出ができた皇后を、今、想像しているのです。

 天武天皇崩御の直後、皇后は大津皇子の謀叛事件を摘発しました。あっという間の一網打尽です。皇后の用意周到な準備と機会を逃さない果断さが窺えます。一方では、謀叛事件に関係した人々のほぼ全てを無罪放免してしまうのです。後世の歴史家に、大津皇子を失脚させる陰謀だったと指摘される由縁です。しかし、書紀の記述では、天智天皇下の有馬皇子の謀叛事件とニュアンスが違います。私が万葉集の相聞歌をもって解し、姉と弟の禁断の愛を理由とする由縁です。その後の宮廷の歌舞や記紀の逸話に繰り返し登場する「近親相愛の物語」は、大津皇子の謀叛の内容を暗に周知させたものとしか思えないのです。
 皇后が天皇に即位するまで、即位直後の政策、治世下の政策の3つの場面に区切って、再度持統天皇の優れた「ものすごさ」を挙げて見たいと思います。

(1)即位まで
 皇后は息子のライバルである大津皇子を除きますが、皇太子の天皇即位を行わず天皇の服喪期間を2年間続けます。3年目の4月に皇太子が病没したことを見ると、そうせざるを得なかったのかも知れませんが、服喪を理由にした皇后の慎重さが窺えるのです。もう一人の強力なライバル高市皇子を見据えた動きとも考えられるからです。天武天皇崩御後の3年間、皇后は服喪に服して、この間の国政記述は書紀にほとんどありません。息子の病没(4月)後、皇后は8月に吉野行幸を行い(以降、天皇即位後も孫の即位まで吉野詣でを何度も繰り返した)、1年を待たずに翌年正月、天皇に即位します。 書紀では、この期間を持統天皇の治世と見なしながらも、称制の期間としています。ちょうど天智天皇が、斉明天皇(母)が崩御してもすぐに即位せずに政治を主導した期間と同じように。昔の書では「朱鳥○年」を使うものもあるようです。

(2)即位直後
 ①解部(争訟の事実審議を行う担当者)100人を刑部省に任じる。
 ②即位報告を畿内の天神地祇に分かつ(伊勢神宮の記述なし)。
 ③高市皇子を太政大臣に任命する。八省百寮を遷任した。
 ④官庁での礼儀作法の規定を通達した。
 ⑤藤原への遷都の準備を高市皇子に命じる。
 ⑥儀鳳暦の導入
 3年間の空白があって懸案事項が山積みしていたとはいえ、即位して1年も満たない内に行った政策を見ると、持統天皇のものすごさが窺われるのです。この中で、即位直後に行った実務担当者の大規模な増員が注目されます。前年正月の記述に目を転じると、判事の任命者(大宝律令の制定に関わった)の中に藤原史(ふひと)が登場します。中臣鎌足の後継者で以後の藤原氏繁栄を築いた功労者です。その人の提言が窺えると同時に、「天智天皇と中臣鎌足」と同じ「持統天皇と藤原不比等」の関係の始まりが注目されるのです。

(3)治世下の特記事項
 持統天皇は、称制の期間(3年間)を入れて10年間を在位しました(11年目の7月までですが、8月即位の文武天皇の期間に入れた計算です)。様々な功績がありますが、天武天皇下で推進した中央集権化を確立して政治を安定させたことが一番の功労だと思います。実質的な功労者は藤原不比等です。そして内裏にあっては、持統天皇と義娘(後の元明天皇)の信頼を得た県犬養宿祢美千代(あがたいのいぬかいのすくね=橘諸兄の母)の存在が欠かせません。不比等と美千代は、持統天皇下で結ばれて娘を得ます。この娘こそ後の聖武天皇の皇后、光明皇后なのです。2人は奇しくも701年(大伯皇女の没年)の同じ年に出生し、美千代の母乳をもって育った可能性が高いのです。
 また話が中心からそれました。元に戻すと、持統天皇下の業績はたくさんありますが、私の本論と関わる特記事項は伊勢神宮です。持統天皇6年に実施された伊勢行幸の意味を考える。それが伊勢神宮の本論なのです。それを次回論じます。
2018-06-13

枕詞「神風の」(17)

 余談「吉野の盟約」について
 持統天皇の話題に行こうと思って、前回のブログを読み返したら持統天皇の登場は唐突すぎます。人麻呂が「大君は神にいませば…」と讃えた持統天皇です。その物凄さがちっとも伝わらないような気がします。私が、「持統一系」という意味と持統天皇の物凄さを余談として以下に取り上げてみたいと思います。
 持統天皇は、鸕野(うの)皇女と言い、百済再興支援の軍に同道して筑紫国で草壁皇子を産んでいます(実姉太田皇女は、往路の船上で大伯皇女を、筑紫国で大津皇子を産む)。また、壬申の乱では夫と行動を共にした唯一の妻だったようです。その意味では、生死をかけた戦場に二度も夫と行動を共にしているのです。肝の坐った女性であると同時に、怜悧であったと評される女性です。その怜悧さを感じるエピソードが「吉野の盟約」だと思うのです。

 679年(天武8年)に吉野の盟約がなされたと書紀の記述があります。天皇、皇后に、草壁、大津、高市、忍壁、川嶋、芝基皇子の6人の皇子が一堂に会して、吉野で行った誓盟の儀式です。通説では、草壁皇子の立太子を確認するための儀式だったと言われています。これに対して、草壁皇子の立太子は1年半も後であり、誓約の進行と内容から分析して違うという論があります。その遠山美都男の書「壬申の乱」によると、「(皇位継承が元で)国家を揺るがすような争乱が半永久的に発生しないようにしたい」という天皇の提言に始まり、諸皇子が草壁を筆頭に「自分たちはそれぞれに母を異にしているが、今後は天皇の勅に従って、同母の兄弟のように助け合う」ことを誓ったと言うのです。次に天皇が6人の皇子を分け隔てなく扱うことを誓い、皇后も同一の事を誓います。そしてみんなで親子として抱き合い「この誓いを破った者は皆滅ぶ」と言い立てるのです。
 遠山氏は、皇子達の誓詞順番に皇位継承順位が含まれていたことは明らかだが、草壁、大津皇子を別枠とした上で、成人に達していた皇子達の継承順位をあくまで年齢基準で認定しようとしたものであったと指摘しています。そして、盟約の眼目は、従来のように世代、年齢を基準に順位決定しながらも、従来と異なる血統的条件を重視して上位2皇子を確定しようとした。しかしまだ、草壁皇子の立太子を目論んだものではなかった。と結論付けています。その説は、天武天皇の立場に着目した見方で、天皇が皇太子を未だ決定していなかったことを強調しているのです。遠山氏の説は、本の題名「壬申の乱」が示すように、天智天皇の後継指名に関する話題が本旨です。吉野の盟約の場面は、その比較例として挙げているだけなので、私の論議する本旨とは違います。
 これから「吉野の盟約」について私が述べるのは、通説とも遠山氏の説とも異なる論です。皇后(持統天皇)の立場に着目した見方で、この吉野の盟約を読み解けば、皇位継承に関する皇后のしたたかな策謀が見えて来るのです。


 吉野の盟約が行われた年の正月に、重要な天皇の勅命があったのです。卑母への拝謁(拝むこと)禁止令です。どういうことかと言えば、それまで正月儀礼としてなされていた父母への拝謁で、母の生まれが卑しければ拝謁してはならないという禁止命令が出たのです。事によっては罰するという厳しい命令です。これを吉野の盟約に参加した6人皇子に当てはめると次のようになります。
          (各皇子の母)    (備考)                (年齢順位)
 ①草壁皇子 ◎皇后(持統天皇)                        3位
 ②大津皇子 ○故人(大田皇女):皇后の実姉、母の序列は1番     4位
 ③高市皇子 ○卑母(尼子娘) :母の序列は10人中8番目       1位
 ④忍壁皇子 ○卑母(梶媛娘) :母の序列は10人中10番目      5位
 ⑤芝基皇子 ○卑母(越道君娘 :天智天皇の皇子             6位
 ⑥川嶋皇子 ○卑母(色夫古娘):天智天皇の皇子             2位
   注:磯城皇子(忍壁皇子の弟)を当てる説もある。本欄の事情は同じ。年齢順位は、遠山美都男の書に基づく。
 
 吉野の盟約に集まった皇子達は、天皇を父とし皇后を母とすべき者が参集したのです。当時、天智天皇の皇子2名、天武天皇の皇子10名がいました。卑母をもつ皇子は、上記以外で1名磯城皇子(忍壁皇子の弟)だけなのです。他の5名の皇子の実母は、夫人、妃の立場でした。実母への拝謁ができたのです。夫人はどうだったか確証がもてませんが、卑母とする下位からの順序であることは明白です。吉野の盟約は、実父を亡くした皇子、実母を亡くした皇子と卑母を持つ皇子に対して、天皇と皇后が実父母役を演じた儀式だったのです。それは、天皇、皇后の麗しい愛と皇子達の尊愛を誓盟するものでした。同時に、卑母拝謁禁止令を天下に美談化して演出した儀式でもあったのです。天皇を喜ばせて、実利を得ているのは皇后なのです。天皇を戴いて愛の団結を誓いながら、実体は皇后と草壁皇子に対する5名の皇子達の服属儀礼に等しかったからです。つまり、父である天皇は当然として、皇后に対しては実母のように敬えと強要し、その実子である草壁皇子を大切にして一致団結することを誓わせているからです。それはとりもなおさず、儀式に参加しない身分高位な他の皇子たちに対しても、実子草壁皇子の立太子を印象づける儀式を演出したことになったのです。

プロフィール

読み人知らず

Author:読み人知らず
 東北の田舎に暮らす退職者です。こんな年齢で万葉集を読み始め、読むほどに好きになりました。たくさんの人が万葉集について語っています。
 私も、巻13にある「読み人知らずの歌」を語りたくなりました。誰にも読まれずしんしんと埋もれていくとしても… 

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