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2018-12-31

絶歌を読んで(後)

絶歌を読んで(後)

 「(Aが)もし本当に罪を償えると思っているなら、それは傲慢だと思うし、所詮言い逃れにすぎない」
 遺族の言葉が、僕の見上げる空に響き渡る。僕が更生しようと、淳君も彩花さんも、戻ってくることはない。自分が生きて、更生して、謝罪するのは…ただの自己満足に過ぎない。…じゃあどうすればいいのだろう。…謝罪とは何だろう。償うとはどういう事だろう…」
 被害者の遺族の言葉を聞いて、謝罪の初め、Aは逡巡しています。その頃Aは比較的衣食住にも恵まれ、弁護士を含む複数のサポートチームに支えられていた。働き、余暇は図書館に行く。休日はジョキングをして健康維持に努めていた。謝罪の手紙も弁護士の助言によったものだったと想像する。
 しかし、やがて彼は自分一人の生活を求めて、そこから出て行く。 「失敗しても成功しても構わない。「少年A」ではなく、誰でもないちっぽけなひとりの人間である自分が、実際「ナンボのモン」なのか知りたい。…自分の過去を知る人がいない土地で、今度こそゼロから自分の居場所を創り上げたい。」
 そして、彼の手記の「新天地」の章がある。「新天地」から「「流転」、「居場所」へと、職も住む場所も変わって行くが、彼の生活スタイルはあまり変わらない。働いても働かなくても、朝に起きて粗末な食をとり、書店や図書館に行く。「ペーパークラフト」「コラージュ」などの制作に没入する。一人の孤独な生活が続いている。
 最初の「新天地」の章で、漫画の話がある。彼は、中学生になって卓球部に入部したこともあってか、漫画「行け!稲中卓球部」を愛読していた。バイブルだったと言っている。勉強も運動もできない。何の取り柄もない「前野」や「井沢」が、自分たちの惨めさを笑い飛ばす姿に自分を投影していた。僕は彼の「ヒミズ」を少し読みかじったことがあるが、絵のタッチが好きでない事やある種の暗さが、それ以上の関心を引かなかった。彼は、その漫画家に触れて書いている。 彼は、漫画「行け!稲中卓球部」の作者古谷実が、その後に描いた漫画「ヒミズ」と「ヒメアノ~ル」にはまっている。特に「ヒメアノ~ル」を読んで泣く。「あの頃の自分だ」と感じて、漫画を読んで初めて泣くのだ。漫画の主人公「森田正一」にAは、自分と殺人犯「山地悠紀夫」を投影して泣く。自分の「性サディズム」と山地の[人格障害]を重ねたようだと。その山地は16歳で母親を殺し、少年院に入り20歳で出院した。更生保護施設を経由して社会復帰するも、大阪姉妹刺殺殺人事件を起こし、25歳で死刑執行されている。抗告を勧めた弁護士に次のような手紙を書き残す。Aは、次の一文に胸が締めつけられたと述べている。

 ① (上訴は取り下げます)私が今思う事はただ一つ「私は生れて来るべきではなかった」という事です。今回、前回の事件を起こす起こさないではなく、「(私の)生」そのものが、あるべきでなかった、と思っております。(山地の手紙の一文)
 Aは、山地の一文に事件当時の自分を重ねているのだと思う。そしてまた、古谷実の漫画を読んで泣き、山地の逮捕時の貌「あれほど絶望した人間の顔は見たことがない」という貌を思い出す。山地という他人に感情移入し、そう言い表わしているAを思う。Aは次のようにも述べていた(②は①以前に書かれている)。
 ② 山地は(再犯殺人の)逮捕後、いっさいに後悔や謝罪の言葉を口にしなかった。そればかりか、「人を殺すのが楽しい」「殺人をしている時はジェットコースターに乗っているようだった」などとうそぶいていた。それは「必死にモンスターを演じているように見えた」「…その姿は、とても痛々しく、憐れに思えた。」

 このようなAの記述から僕が言いたいのは、「殺人が愉快でたまらない」と嗤ったモンスターの20年後の心だ。この言葉は、狡猾に成長したモンスターの偽りの言葉なのだろうか。悪意を隠した心なのだろうか。進化した悪意が、善意の人々を騙し、さらなる殺人を犯すために牙を研いでいる。簡単に信じてはいけない。少年院で受けた教育効果など怪しい。より狡猾な悪に注意を払うべきである。などと僕は言うべきだろうか。
 しかし、漫画に想像力をもって共感し、泣けたという心を疑う人は、人の世でどんな心を信じるのだろうか。言葉は誰でも操れるので、疑えば誰だって怪しい。でも僕は、漫画を読んで泣く人が好きだ。不幸な人を自分に重ねて思いめぐらす人は、無条件に好きだ。だから僕は、そんなAに単純な好感をもつ。そのような感情を表現できるAを信用する。
 Aが被害者の遺族に謝罪の手紙を続けたのは、義務にかられた継続ではなく、このような心をもつまでの曲折した経過を辿ってだった。
 「自分が1年をしっかり生きたかの確認」として謝罪し、遺族に報告するという言葉に、僕は感銘を受ける。「新天地」、「流転」「居場所」と変遷した彼の生き様を付けて、彼の行き着いた「ちっぽけな答え」(Aの言葉)だったと思う。そのちっぽけな答えに、僕は泣きたくなる。なぜなら、保護処分の中身、刑罰と教育の矛盾する狭間で行われている矯正教育。非行少年に求めている理念。矯正教育に携わる現場職員の祈念が、20年後のモンスターによって体現されて、語られているからである。彼の言葉を疑うならば、矯正教育に携わった人は自分の仕事を信じていなかったに等しい。

 テレビ番組の討論で十代の少年が発した「どうして人を殺していけないのですか?」という問いが話題になったことがあった。その場面について、Aは「もし自分が問われたらこうとしか言えない。」と述べている。「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」
 どうして人を殺していけないのか。この絶対悪を「なぜ?」などと問う少年に、当時の大人たちは困惑したのだと思う。僕も、なぜもへちまもないものだ。やっては絶対いけないことなのだと。と怒りを覚えたものだった。
Aは「哲学的なひねりもない、こんな平易な言葉で、その少年を納得させられるとは到底思えない。でも、これが、少年院を出て以来11年間、重い十字架を引きずりながらのたうちまわって生き、やっとみつけた唯一の、僕の「答え」だった。」と述べている。

 この少年の質問は馬鹿げているが、とても意味深長なのだと思う。少年の質問は、不快で馬鹿げている。が、誰もが薄々分かっていることなのだ。それは「人間が人間を殺せること」、「人殺しなんて誰だってできること」を。平和な社会にあってのみ語られる絶対悪なのだと。戦争が生じたら殺人は正当化されてしまう。生と死の極限状態である戦闘の場で、社会の美徳である善良さや良心など何の意味もなさなくなるだろう。
 そのような戦争時の問題は、戦後の文学で戦地経験をして来た作家達によって描かれている世界だ。戦争をくぐり抜けて来た人たちに広く浸透した人間の苦悩だった。そんな時代の片鱗も消えた、豊かな国に生まれ育ったひ弱な少年の馬鹿げた質問。そこに怒りが沸いたのだと思う。その僕とAを対峙してみる。僕は、Aの言葉の方が質問者に対して、説得力を備えているような気がしてしまう。


 ―自分が奪ったものはこれなんだー
 とおもった。それは何でもない光景だった。でも、他の何物にも代えがたい、人間が生きることの意味が詰まった、とてもとても尊い光景だった。 自分が被害者の方たちから奪い去ってしまった「何でもない光景」を、僕は体感した。自分が、そこにいてはならない汚らわしいもののように感じた。僕はベンチを立ち、(略)陽なたの世界から、逃げるように立ち去った。

  「絶歌」は、事件から20年を経たモンスターが社会に再び向けた挑戦状ではない。怨みや憎しみのメッセージでは無く、その後の更生をひけらかすために書かれた手記でもない。更生の途上にいる人殺しの反省と謝罪を込めた生き様の手記だと思う。
 しかし、人殺しが書いた手記に変わりはないので、社会が受け入れることは少ないと思う。平和な社会の絶対悪を三重の残酷さで犯したAは、マスコミによって誰もが知っており、例えAがどのように謝罪しても懐疑の眼で見つめるのだと思う。
 被害者の遺族はさらに絶対に許せないと思う。それはAが自分の行為を振り返り、自分を絶対に許さないことと等号で結ばれている。
Aが自分を許さないと心から思った最初の気付きは、被害者ではなかった。彼は、自分一人がめちゃくちゃになったのではなく、両親と弟たちが、親族がめちゃくちゃになったことに気付いたのだった。だから家族に謝罪し、家族から許されても、自分がもう許されないことを気付いたのだ。「憎しみの殺人」からAが失ったのは、自分だけでなく、「家族の日常(平和)全て」だった。A個人の生と死の破壊だったつもりが、彼が反省で思い至ったことは、Aの家族にあった日常(平和)の破壊とAと同じ運命を背負わされた家族の姿だった。本人は、その気付きに立って初めて被害者の痛みを知ることができたのだと思う。手記を信じるならば、Aは自分の行為(殺人)を絶対に許さないし、家族に許されても自分を許さない。自分の犯した「憎しみの行為」に苦悶している。

 被害者の遺族の気持ちを重ねて僕は考える。Aのために大切な身内を亡くした人々を思う。その人々にとって、愛する子は永久に帰って来ない。喪失の悲しみは、悲しむ時間の経過で癒されていくべきものなのに、被害者の遺族の方々には、その死と殺したAの残酷さが一緒に記憶されて甦るのだ。悲しみが残酷さに穢されて、悲しみを悲しむことができない。Aへの憎しみが湧いて悲しみを悲しむことができない。悲しみが癒されないので、憎しみが記憶と共に続く。遺族の方々の不幸な思いを、僕は痛ましく想像する。社会の人々も、被害者の心を疑似体験してAを憎む。Aの更生した姿と言っても、死んで帰らぬ人の姿と並べれば、憎しみの記憶が甦るのだ。

 そうして僕は何を言いたいのかと言えば、それでも君を励ましたいと思う。君に助言を述べたいと思う。ネット宇宙という闇と孤立した星の光と、自由があると信じたい空間に、僕の思考を飛ばしたいのだ。君に届いて欲しい。

 Aが最後の章「道」に書いた最後の一文、彼の人生への思いである。
 どんなに遠廻りしても、どんなに歪(いびつ)で曲がりくねっても、いつかこの生命(いのち)の涯(はて)に後ろを振り向いた時、自分の遺した足跡が、一本の道になるように。 

 君が社会の眼を意識して生きるならば、君の一本の道はどうなるのだろうか。僕は、意地悪く考えて見る。世間は、人殺しの生きた道なんかに誰も興味がないだろうし、人の世からはぐれた自業自得の運命に生きよと望むだけだろう。その望みとは、「影の無い男」のように生きることだ。ひっそりと人ごみに紛れて生きること。でも影の無いことに誰もが気付く。そのために正体がばれることを絶えず怯えて、妻子も無く、隣人も無い、人の善意を怖れ、たった独りで流浪の中を生きていく。「影の無い男」の示す教訓は、影を持つ男の世界からの戒(いまし)めでしかない。「影の無い男」の考えや悲しみは語られず、救済も語られない。男の生きた道は、破滅として語られ、闇とともに閉ざされている。

 僕は、君の「道」と言うならば、それは君が泣いた者のために歩む「道」だと思う。そのような道を思い、進んでいくべきだと思う。例えば、弟たちが君のために泣き、「いつまでも兄だ」と叫ぶ言葉が、君の闇夜の道標(みちしるべ)であって欲しい。あるいはまた、君が泣いた殺人鬼「山地悠紀夫」の絶望に指し示す道であって欲しい。憎しみの視線に折れた道ではなく、これからも生まれるかも知れない君と同じ絶望者への道標(みちしるべ)となる道、そのような光る道であるべきだ。これからも、君が涙する者が現われる時、君が涙して歩む一歩が君の道を作って行くと信じたい。それがどんなに遠回りでも、歪で曲がりくねっていても、被害者の遺族に示す唯一の償いの道だと僕は考える。
 それに君は知らないだろうが、君を守ったのは「少年法」だった。そのために君の今がある。君を守ったばかりに、あの「少年法」は死んでしまった。「16歳に満たない少年は検察官に送致できない」という少年法の但し書き条文は、今はもう無い。これから君のような事件を犯す少年が現われたら、刑罰が科されて、保護処分(少年院)から刑罰(刑務所)へ移動した長い期間を社会から隔離される。矯正教育の後に刑罰が科されるのだ。君のために保護処分の理念は、刑罰の下に萎んでしまったように思える。君は、保護処分に助けられた最後の人殺し少年なのだ。その短い収容期間の矯正教育が、君の更生に寄与したかは分からない。でも、君は一人立ちし、社会の中で今を更生して生きている。君の生き様は、そのような世界にとっても希望であるべきだ。少年法の萎えた理念を君の足跡で、いつかもう一度輝かして欲しい。

 僕の君を励ます言葉は尽きたが、年長者としての助言を述べたい。生き方は違っても、君の「人間として」という観点ならば、僕も君に言う事が出来ると思う。君の手記から感じた、危うさを指摘して僕の助言としたい。
 人の役に立つ。信頼される。必要とされる。それが素直に嬉しかったし、自分もひとりの人間として社会に受け入れられたのだと自信にもなった…
でも、そんな前向きな気持ちは、粉々に打ち砕かれることになった。
                         (「居場所」の章の一文) 
 君は、打ち砕かれた例を2つ挙げている。1つは、職場の先輩で、君を評価し、アパートの保証人にもなってくれた人だ。その人から夕食に招かれて、断れきれずに君は行く。そのマイホームの夕食は、先輩と奥さんと小学生の娘さんを加えた団らんだった。娘さんと母親に迎えられ、「足のすくむような恐怖感にとらわれた。やはり自分は、ここへ来るべきではなかった。来てはならなかった。」と、君は感じる。食卓で何一つ答えられなくなる。「本当の事を答えられないのが辛かった」といたたまれない。そして君は、「食卓の途中で体調の不良を訴えて席を立ち、家まで送るという先輩の気遣いもはねのけ、逃げるように彼の家をあとにした。」と述べる。一人の帰途、君は辛く苦しい後悔の念に泣く。その思いを次のように書く。
 自分の過去を隠したまま「別な人間」として周りの人たちに近づきすぎると、本当の自分をつい忘れてしまうことがある。(略)どんなに頑張っても、必死に努力しても、一度一線を越えてしまった者は、もう決して、二度と、絶対に、他の人たちと同じ地平に立つことはできないのだと思い知る。
 その日を境に、先輩とまともにコミニュケィーションが取れなくなり、急に手のひらを返したように素っ気ない態度を取る僕を、さすがの彼も快く思わなかった。「何だよコイツ」と思われたはずだ。と君は結論する。

 2つ目の例が続く。同じ職場の中国人労働者の後輩との場面だ。Aが自分の弟に似ていると思い、親切に接し、指導している内に信頼を示してくれるようになった後輩に、ある日、使い捨てカメラで一緒に写真を撮ろうと言われる。
 屈託のない笑顔で、彼が言った。中国で暮らす家族に自分と僕の写真を送りたいのだという。僕の全身が強張(こわば)った。―苦手だからとAは断るが、後輩はシャッターを切る…次の瞬間、僕は彼から乱暴にカメラを取り上げ、床にたたきつけ、踏んで壊した。ハッと我に返って彼の方を見ると、普段の姿から余りにかけ離れた、常軌を逸した僕の剣幕に強いショックを受けたのか、怯えた眼で見つめていた。とんでもないことをしてしまったと思った。僕は財布から千円札を抜き取り、ごめん、と謝って、彼に差し出した。後輩の眼が怯えから悲しみに変わった。(略)お金を受け取らずに無言で立ち去った。僕は激しい自己嫌悪に襲われた。
 そして、君は自己嫌悪の中で懊悩する。
 ―自分は人の命を奪った人間なんだ。(略)被害者の遺族を今も苦しめている人間なんだー という実感が、一気に身体じゅうに拡がって、扉の向こう側が、本当は自分が居てはならない遠い世界のように思えた。「社会の中で罪を背負って生きて行く」ということの真の辛さを、僕は骨身に沁みて感じるようになった。


  読者には、君の苦悩がより実感できる記述に見えるかも知れない。だが、僕にはこの2つの場面が不快になる。2人いなり代わって言えば、「何だ!コイツ」でしかない。人の善意をぶち壊して、独り訳の分からない言動を取っている。コイツは一体何者だ? 実際、先輩には、後日のきちんとした謝罪がされていないし、中国人の後輩には、千円を出して詫びる非礼さだ。挙句は、被虐的な自己の煩悶で真の辛さを感じたと読者に言う。そして、現実の君は、辞表を出して逃亡して行く。
 人の善意を「なぜ受け入れられないのだ」と僕は思う。罪を背負ったヒーローのような感傷でAは語るが、拒否する源泉はどこにあるのだろう。中国人労働者の信愛を示すカメラ撮影の場面では、彼のカメラを壊す行為をしでかした。そして千円札を出して償おうとしている。そんな衝動の源泉はどこにあるのか。自分の正体を知られたくないという恐怖がなぜそんなに強固にあるのか。その一方で、どうして「絶歌」を出版し自己主張するのか。
 あるいは、食事に招待された家庭に自分が殺した女児と同じ位の年齢の女児がいたからと言って、それが何だと言うのだろう。そんな場面で居たたまれない恐怖の衝動にかられたとするならば、罪の意識よりも恐ろしい暗部が君にあったと言うのだろうか。烙印を押された君の性的サディズムの衝動を逆に強調してはいないか。それで、「自分が恐ろしくなった」と言うのならば、君の嘔吐にも近い怖れを理解できるというものだ。そんな逃れられない病理を告白していることになるからだ。そんな心を隠して「絶歌」を記していたのならば、悪意の創作で人の心を弄んでいることになる。とても恐ろしいことだ。
  しかし、僕は「絶歌」をそのように読まなかったし、Aの病理も考えていない。僕はただ、罪の意識でトラウマとなりその場から逃げてしまったと言うAの現実認識を批判したいだけだ。そんな場面に折り合いを付けられない自分を、罪の意識に結びつけて合理化しているAを批判したいのだ。

 君は元々人とのコミュニケーションが下手で、その努力も体験も少ない未熟な青年なのだと思う。さらに少年院や仮退院中に受けた善意は、どう見ても保護関係機関の人々の意図的な善意に思えてしまう。だから、君はそこから飛び出して一人の世界に入って行ったのではないか。そこで、初めて得た他人からの善意ではなかったか。君にとっては、自分の行動によって得た価値のある他人の善意だったのだ。その善意の前に「自分の正体を曝け出したくなり、それができない」と煩悶したり、正体が知られる危惧にパニくるなんて、全く馬鹿げている。社会生活に適応すべき人間が、なぜ自分の秘密を曝け出さねばならないのか。罪の自責に悩む人間の小説としては理解できても、現実的にはほとんど意味のないことだ。絶対言いたくない秘密を抱いて、歯を食いしばって生きている人なんて、世間には五万と居る。第一、人と信頼を結ぶために「自分を曝け出す」なんて、そんなことはあぶなっかしいだけの事だ。むしろ、そんな気持ちにすぐ陥る人は、世間では逆に信用されない人だ。普通のつきあいで、そんな重いものを告白されて、信頼関係を深めることなどまずありえないことだ。うざいし、うっとうしいだけだ。

 君の罪は保護処分を受けて終了しているはずだ。もう罪は、君の心の中の問題であり、謝罪は被害者に対する問題だ。世間に何の赦しを求めて怯える必要があるだろう。もし、世間に対して身構えるならば、「元人殺し」と言う中傷と敵意に晒された時に耐える心構えだけではないのか。それは君が逃げるための心構えではない。逆に受け入れて耐えるべきための心構えであるべきだと思う。自分の努力では均衡を保てない状況になって、初めてその場を去って行くだけで良いことなのだと考える。
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2018-12-07

 絶歌を読んで(前)

   絶歌を読んで(前)
 神戸連続殺人事件の少年Aの「絶歌」が出版されたのは3年前でした。その時に購入した本をずっと読まずにいて、今日読んだのです。さらにずっと昔に出版された「「少年A」この子を生んで…(父と母悔恨の手記)」と言う本も引っ張り出して、併せて読みました。読み終えたら夜で、酒を飲んで酔ったら泣けて…その勢いで感想を書きたくなりました。
 少年Aが殺した野良猫と彩花ちゃんと淳君…許してください。僕は君たちでなくて、Aのために泣いたのです。残酷に殺された君たちではなく…人殺しのAとAの親や兄弟に泣き、それから人殺しの人生を思って、涙が流れてたまりませんでした。それで、ネット宇宙に向かって僕の声を発し、Aについて語りたくなったのです。僕の思い上がりを許してください。
 20年以上も昔、日本中を震撼させた人殺しがあったのです。1997年、神戸連続殺人事件がありました。女児と男児が酷く殺害され、近所に住む中学3年生が逮捕されたのです。これがきっかけで、少年法までが変えられていった大事件でした。事件は殺人の事実よりも、その後の死体損壊やマスコミへの挑戦状などによってショッキングでした。次のような殺人者のメッセージがあり、逮捕までの事件経過があったのです。
「さあ ゲームの始まりです。愚鈍な警察諸君 ボクを止めてみたまえ ボクは殺しが愉快でたまらない」(5月27日、行方不明だった土師淳君の頭部とともに中学校の正門に置かれた挑戦状)

(事件の経過) 
1997年2月10日 ○女児2人通り魔襲撃事件
     3月16日 ○同上殺人事件(山下彩花ちゃん死亡)
     5月27日 ○士師淳君殺人事件(中学校正門に損壊した頭部を置く)
     6月    ○神戸新聞への「犯行声明文」を送る
「透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて戴きたいのである。(略)今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない…殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる」
     6月28日 ○少年A逮捕

 被害者は女児と障害者の男児でした。男児は行方不明となった数日後、顔を残酷に傷つけられ、その頭部のみが書置きとともに中学校の正門に置かれていたのです。あまりにもショッキングな事件で、当時日本中を震撼させたのです。警察やマスコミを嘲弄するような犯行声明は、様々な憶測を呼びましたが、逮捕された犯人は地元中学に通う3年生の少年Aだったのです。
それまで少年の殺人はあっても、これほどまでに残虐で非人間的な事件はありませんでした。「「ゲームの始まり」「殺すのが好き」などと言葉を操って自己主張する恐ろしい中学生が出現したのです。逮捕後、小学生時から猫を虐殺していたこと、不登校で児童相談所に通所していたことなどが、次々に報道されていきます。その論調は、被害者の側に立って正義の鉄槌を下さんと、いつも拳を握っていました。少年法が禁止していた少年の実名や写真を掲載する雑誌が現われました。悪魔のような人殺しに少年法の保護など無く、国民の知る権利が優先する。包み隠さず伝えることこそ使命であると、当時の握り拳が主張していました。それらの雑誌は、発刊と共に飛ぶように売れていったのです。Aの家族もまた、そのような怪物を生み育てた加害者として常に追求されていました。そして、私も好奇心をもってそれら雑誌を読み漁った一人でした。

冷静に事件を見つめれば、Aの残虐行為は小学5年時から始まりますが、それは事件後の調査によって、見出されたものです。彼の非行は、小学6年時から逮捕される中学3年の6月までの、概ね3年間の出来事でした。初発非行から家裁係属までの非行期間を見れば、非行少年たちの問題行動の発現と大きく異なっているわけではありません。ただ、家庭や学校という生活空間から疎外された非行少年が、そのために居場所を不良交遊の場に求めて行くケースと異なり、Aはまがりなりにもそれらの生活空間に留まっていました。その裏で弟たちへの乱暴があり、さらに屈折した小動物への加虐へ進んで行ったように思えるのです。ゆがんだ社会性の獲得ではなく、深い穴に一人落ち込んでいったのです。たった一人で生き物の死を弄ぶ怪物になっていったのです。それはサディズムとか性的快楽とか…精神鑑定の過程で指摘されたそんな異常性とは違う、生と死の淵のような場所で、あちら側の怪物に連れて行かれた少年だった。
大人の殺人の動機は、大半が金銭目的あるいは金銭トラブルです。次に怨みや憎しみに基づいた動機。少年の殺人は、金銭上の動機よりも家族や知人を対象とした憎しみが多いと聞いたような気がします。いずれにしても殺人者は、相手を殺すための具体的な動機を持っている。と言うのが、常識だったのです。Aの場合は、小動物の殺害から発展して人間を殺して見たくなったというのです。人間を殺して見たいという欲求にかられた殺人。常識では把握できないモンスターの殺人が起きたのです。

そのAは、家庭裁判所の審判の結果、保護処分を受けて医療少年院に送致されました。20歳になったら処分は終了し、社会に戻って来られるのです。たった5、6年の収容期間です。死刑はかわいそうだとしても、無期懲役か最低でも20年以上の収容処分だろう…と言うのが、被害者の立場に立った当時の正義であったろうと思います。保護処分は軽すぎるというのが、世間の風評でした。そのような少年法という法律の不備が批難されたのです。
当時の記憶を思い出すと、Aは刑事責任年齢(14歳以上)を越えていたのに、「16歳に満たない少年は検察官に送致できない」という少年法の但し書き条文によって、刑法が適用できなかったのです。少年Aは少年法に守られて、死刑にできないどころか、保護処分にしかできなかったのです。少年院に収容して矯正教育を施すことが、Aの処分でした。少年法の目的が「少年の健全な育成を期して、保護処分を行う」ことにあったからです。性的な欲求に支配された殺人者が、あるいは殺人を好む殺人者が、20歳になったら社会に帰ってくる。矯正教育などありえないことのように思われて、社会的な批判が盛り上がったのでした。

2004年、そのAが、少年院での7年の矯正教育を経て社会に戻ったのでした。そして今では、事件から20年以上が過ぎ去ったのです。彼の手記に基づけば、次のような経過を経て。


(逮捕後から社会復帰までの経過)
1997年 7月25日 ○警察署から少年鑑別所へ入所
      8月    ○精神鑑定(60日間)
     10月    ○家庭裁判所で医療少年院送致決定となる。
            ○東京の少年院入院
            (収容期間中に他の少年院で溶接技術を習得したか。)
1999年 4月    ◎「少年A」-この子を生んで… 父母の手記出版
2004年 3月10日 ○少年院を退院(保護観察となる)
             保護観察官と都内のビジネスホテルを転々とする。
4月上旬  ○更生保護施設に1か月の予定で入所
             派遣会社を通して日雇いの仕事をする。
            (配送運搬、清掃業務)
             少年Aと周囲に知れて一旦保護施設を出る。
             施設に戻り、施設の離れで隔絶して再生活
            (廃品回収業手伝い:5月まで)
      5月中旬  ○最終身元引受人(Yさんの許)へ転居
2005年 1月    ○保護観察終了(保護処分の終了)
             プレス工として就職(アパート住まいに移る)
      8月中旬  ○プレス工を辞めて新天地を求める。
     12月    ○寮付き建設会社に契約職員として就職。
2009年 9月 6月 ○リーマンショックで解雇
2009年 9月 ○溶接工として会社就職。
2012年 冬  ○同上の会社を辞職
2015年 6月 ○「絶歌」出版

 Aは「絶歌」の冒頭で述べていますが、1997年6月28日(逮捕)から、自分の氏名を失ったのです。殺人鬼「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)は、その本名を全国に報道されたために、少年院収容期間中もその後の社会復帰以降も、本名を使えなかった。マスコミ報道を覚えている人はまれで、時間の経過とともに皆が忘れていく。本名を使えなくなるわけがない…そうではありません。記憶している人が必ず1人や2人いるのです。その誰かが気付けば、たちまち殺人鬼のうわさが周囲に立ち上がる。そのリスクを避ける配慮が徹底してなされたことが読み取れるのです。皮肉にもAが最初に望んだ、世間が絶対に忘れない「超有名人」になった途端、彼は本来の自分の名前を失ったのです。ペーター・シュレミールが書いた寓話「影を売った男」のように、誰にでもある影を失ってしまった。人の世界に安住できない男になってしまったのです。

 でももしかすると、Aは違う意味で心傷を受け、社会復帰後も囚われてしまったのだろうか。Aは、本の帯にも次のように書いているからです。

「少年A」-それが僕の代名詞となった。僕はもはや血の通ったひとりの人間でなく、無機質な「記号」になった。それは多くの人にとって「少年犯罪」を表わす記号であり、自分たちとは別世界に棲む、人間的な感情のカケラもない、不気味で、おどろおどろしい「モンスター」を表わす記号だった。(帯の言葉)
 
 少年犯罪だったから、報道は「少年A」であるべきだったのです。なのに「超悪犯罪人」だったがゆえに実名報道がなされた。そのために保護処分は、要らぬ危惧を守って、逮捕から収容中を匿名の少年Aとして扱わざるを得なかった。仮退院という社会での仮免許中も匿名の配慮がが続いた。それが、保護処分中の匿名の縛りだったのではないか。決してモンスターを表わす記号ではなかった。 
 しかし、Aは、本退院となった社会復帰後も匿名で周囲と接する生き方に捉われ続けているのだろうか。痛ましさを覚える反面、それは違うと言いたい僕がいます。Aを血が通った人間と見なすかモンスターと見なすかは、人々の風評でしかない。Aはもう犯罪者でも逃亡者でもないのだ。今となってから、自分を「人間でない自分」と決めるのはおかしいのです。影を売った男の寓話は別な意味で怖いのだけれど、現在に当てはめれば、「影がないから何だ」という話です。
もし、君が「血の通ったひとりの人間」でなかったら、君の手記を読んで泣く僕は何者か。単なる酔っ払いだからだろうか。気まぐれな感情でちょっと泣きたくなっただけ…さらに気まぐれな同情で、ネット宇宙に僕の感情をひけらかしている。
断じてそうではありません。僕は僕の思考したことを君に語りかけたい。それで素面になって書き、さらに書きたいと思う。僕の言葉は届くだろうか。


 「…ボクは殺しが愉快でたまらない」
君の人でなしな声明から漏れる饒舌な憎しみと主張は、空想上ではなく犯行後にした実際の行為だった。自分よりもずっと弱くて無垢な生命を奪い、その死者の尊厳を踏みにじった後に、さらに恐れ気も無く被害者の悲しみに毒を塗って嗤い、社会に挑戦していた。君の行為は、三重の意味で世の中に驚愕を与えたのです。さらに後で分かったことは、連続通り魔事件も君の犯行だった。この狂気の暴力は一体何だったのか。

まるで別なことを述べると、暴力の味を知った非行少年にモラルや正義の理屈はほとんど通らない。暴力は魔のように膨らんで巣食っていく。少年の暴力は、たたきつぶされるまで膨張していく。たたきつぶされることを願っているみたいだ。しかし、その暴力にすら社会性はあって、不良仲間に属する暴力と家庭内に籠った一人の暴力は違うのではないか。君の暴力は後者に近いのだと思う。
 暴力という衝動を止められず、行為のあとでしか人間的な感情に戻れないのなら、本人はきっと苦しいのだと思う。苦しいが衝動を止められない。それは、病気なのだろうか。最も強い欲求と言われる性的な衝動なのだろうか。
 僕は、暴力は叩き潰されなければならないと思う。暴力に理解はいらない、暴力は全否定されるべきものだと思う。でも暴力に勝つそのような力はどこにあるのだろうか。大人がもっと強い暴力を振るえば、抑圧できるのだろうか。あるいは、小さな子供の時にはどうすればよいのだろう。子供の暴力には、親はどうすればよいのだろうか。

 「原罪」
 Aは手記の中で、原罪として烙印された自分の性的なサディズムを認めながらも、
自問の言葉で抗議している。「事件当時僕は14歳だった。仮にいくら異常な素質があったのだとしても、年端もいかぬ少年の「攻撃性」と「性衝動」が、そんなに簡単に、ほとんど成り行きのようにあっさり「結合」してしまっていいものだろうか?」と、小さな声でAは否定しているのだ。
 逮捕後、少年鑑別所で初めて両親と面会した場面が双方の手記に出てくる。涙をこぼしながらも、悪鬼の形相で怒鳴ったA。両親に対して初めて取った態度だった。
その様子は、家庭内暴力の子供が取る攻撃的な態度に似ている。

Aの両親の手記を読んで、僕はどこにも「ひどい親」を見出せなかった。むしろ、Aこそがゆがんだ認知を持ち、ずっと弟たちに暴力を振るっていたのではないかと想像した。平和だった家庭が少しづつ歪み、Aの葛藤は限界越えて、暴力の悪鬼に憑依し、家族は事件後めちゃくちゃになってしまう。
しかし、残された家族はそうならなかった。父母も弟たちも父母の縁者たちも、全てを失くした被災者のようだったのに、肩を抱き合って生き、Aへの姿勢も変えなかった。Aの手記にある2つのエピソードを挙げる。次の話は、ずっと後になっての出来事だ。Aが社会復帰した後の話である。

① 生まれて初めて父の涙を目にした日
 仮退院して最初の誕生日に、Aは父と一緒に山小屋で過ごす。夜に、父が家族の元に帰ってくるように言うが、Aは辞退する。以下にAの手記の断片を引用する。

父親は、僕の中に何か得体の知れない恐ろしい一面があることを認め、それも含めて僕を「息子」として受け入れているように見えた。
「ありがとう。でも…よく想像するねん。…いきなり僕の事件に関連したニュースが流れて、そこにおるみんなの表情が凍りつくところを。…たとえ父さんたちが大丈夫でも、僕が耐えられへん…」それは偽りのない(僕の)本心だった。
(略)
○○に会いたい…
だがそんな身勝手が許されるはずがない。
自分は何をした?
家族や他の身内をどんな目に遭わせてきた?
身内の誰も責めなかったからといって「許された」なんて思っているのか?

 そして、父が食器を洗い少年が風呂に入ろうとする時、Aが父の方へ戻って背後から、声をかけ「なあ 父さん」「おう。どないしたんや。風呂入ってええで」「いや ちゃうねん」と言った会話の後で、
「父さん、僕ら5人はほんまに普通の家族やったよな。ほかのみんなと同じように、家族で一緒に出かけたり…幸せやったよな。僕さえおらんかったらよかったのに。なんで僕みたいな人間が、父さんと母さんの子供に生まれてきたんやろな。ほんまにごめん。僕が父さんの息子で」事件後、僕は初めて父親に向かって謝った。
 次の瞬間、父親は僕から眼をそらし、親指と人指し指で目頭を突き刺すように抑え、見ないでくれとでも言うように、俯き、肩を震わせ、声を殺して泣き始めた。父親が泣くところを見たのは生まれて初めてだった。

 その父の姿を述べた後に、Aは突然、小学1、2年時の子供時代の暗い記憶を甦らせる。その風景を要約して次に挙げます。

「隣の席に、ほとんど何もしゃべらない男の子がいた。ある時僕は、その子の声が聞きたくなった。珍しい動物の鳴き声を聞きたがるように、そのために、その子の腹を殴った。その子は声を出さずに屈みこんだ。僕は襟を掴んで立たせると、半ズボンからのぞくその子の内腿を思い切りつねりあげた…その子は黙って耐え、やがて一筋の涙をこぼした。僕は興ざめして、何事もなかったように止めた。
 何の反撃もせず、ただ黙って必死に苦痛に耐えていたその子の涙と、眼の前で泣いている父親の涙が重なって、いたたまれない気持ちになった。
 思えば僕はずいぶん長い間、父親の存在を無視し続けることで、繊細で我慢強い父親の心をつねり上げてきたように思う。

 Aの父に対する思い(謝罪をこめた心)は、十分に伝わって来るのですが、僕には、唐突に現れた小学1~2年時の思い出が興味深い。Aが述べた記憶の子供「つねり上げていた子供の被害者」は、僕にはAの次弟の姿が重なってくるのです。
その弟たちとの面会は、父の涙の場面よりもずっと先にありました。Aの逮捕後から4年を経た少年院での面会です。18歳と17歳と16歳の兄弟が、事件後初めて対面したのでした。Aの手記では、その場面と心の思いが、手記の最後の頃になって、ようやく書き留められています。それを要約して挙げて見ます。

② 弟たちとの再会
 「弟たちの前に座っても、僕は彼らの顔を正視できなかった。立ち合いの教官に促されて、やっと「久しぶり」と口を開いた。」それから少年院の生活を一方的に語ります(自分から話すしかなかったので)。そして、当たり障りのない会話を続け、終了間際になって、Aはやっと襟を正して謝罪するのです。恐る恐る顔を上げると、「次弟が口元を震わせ、必死に何かに耐えるように前屈みになり、やがてこらえきれなくなって、その場で声を押し殺して泣き崩れた。」その姿を、Aは「辛く苦しい、忌々しい記憶を思い出させてしまったのだと思う。」と述べます。末弟が震える涙声で「Aを怨んだことはない。今でも、Aが兄貴で、良かったと思っとる」と訴え、「その言葉に、胸が締めつけられた。」と言うA.。退室時に振り返り、頭を再び下げると、次弟が「真っ赤に晴れた眼で僕の眼を見据え、頷きながら、右拳をぎゅっと握りしめて、「頑張れよ」というふうに小さくガッツポーズをとった。」Aは、部屋に戻ってトイレに籠ったままようやく壁に号泣したのです。謝れなかった思いを、手紙に書き送り、弟たちから返事が届きます。次弟の手紙の最後の方に、「俺もAも絶対に抜け出せないと思っていたあの迷宮から抜け出した」と書いてあり、Aは涙が止まらなかったと述べています。それは、和解と言うにはあまりに離れてしまった二人だと思うのだけれど、兄には確とした力が与えられたのだと想像します。
 その後に、Aの本当の反省があります。「物心ついた頃から、ことあるごとに僕は次弟に因縁をつけ、わけもなく殴り、言葉の暴力でその繊細な心を傷付け、彼がチック症を発症するほどに追い詰め、苦しめた。彼が大切にしていた自転車を壊し、彼が丹精をこめて作り上げ、机の上にいくつも飾ってあったガンダムのプラモデルを壊し、そして、彼の未来を壊した。」と自分の犯したいじめを挙げて、「僕は、次弟に嫉妬していたのだろうか。勉強も運動もできて、性格も明るく、友達も多く、親戚のあいだでも人気者で、自分にないものをすべて持っていた次弟に。」と自分の心を見つめていきます。そして、Aが少年院に入院した時に手紙に入れてあった次弟の手形(震えた鉛筆のラインでかたどられた左手の)について語ります。「あの手形を取った時の次弟の小さな手は、いったいどれほどの不安と、恐怖と、やりきれなさと、悲しみと、僕への憎しみを抱えていたのだろう。それを考えると辛い。辛くて切なくてたまらない。本当に申し訳ない…今でも(その手形に)手を合わせる。そうすると、どんな辛いことも、どんな苦しいことも、この手形を取った時の次弟の苦しみに比べれば、苦しみのうちに入らないと考えて、もう少し頑張ろう」と自分を奮い立たせることができる。」

 しかし、Aは弟たちと一緒になることはなかったのです。社会復帰に当たって家族の元を選ばず、更生保護施設を経て、たった一人の生活に進んで行った。そして、14年を経た。罪を犯した年齢までと同じ時を過ごして来たのです。




 閑話に不似合いなものを書き、不安になって削除してしまいました。Aは更生の手記を世に問うたというのに、その感想一つ書くのにビビッて、僕は弱虫です。弱虫だけれど、僕の思いは最後まで書きたい。逃げ腰で、とてもAに届かない言葉に思えて来たけれど、僕の考えだけは書きまとめたい。
 死刑に値する人殺しが、少年であったというだけで保護処分になり、わずか7年で社会に復帰し、自由な社会で生きている。本人がどんなに反省し苦しんでいるか知らないが、死んではいないし、殺されてもいない。そいつが堂々と手記「絶歌」を出版している。社会に自己主張をしている。そんな態度を許していいのか。という声なき声に怯えるのです。そんなことを気にして、自分が何を言いたいのか。だんだん分からなくなってしまうのです。
彩花ちゃんと淳君の遺族の方々、僕のような部外者の言辞を許してください。遺族の方々が、Aを許せるわけがないのです。許したら死んでしまった子の無念を忘れてしまうに等しい。Aに対する憎しみが薄れたら、残酷な死も薄れてしまう。同様に社会が許さないのも、酷く殺された人の記憶を忘れないからです。
 でも、僕は、保護処分を受けたAについて述べたい。刑罰ではない矯正教育を受け、医療措置受けて、社会に帰ったAの生活ぶりを思い、彼の更生について考えたいのです。

 ①「反省と謝罪について」
 人の世で、謝罪は反省の後にあるのだと思います。心からの反省があって謝罪が生じるのだと考えます。強制された謝罪や反省のない謝罪がいかに空虚なものかは、国会答弁や社会の出来事を見ていれば誰でも分かります。
 Aは反省したのか?反省がAの手記から読み取れるのか。そのことについて、僕は今まで述べて来たつもりです。「人を殺すのが愉快でたまらない」と言っていたモンスターの反省を読み解いて来たのです。 Aはサディズムの性衝動を持ち、医療を要する少年だと鑑定されましたが、彼自身は、自分が病気だったとは一言も言っていません。むしろ否定しています。僕が、彼に代わって分析した「彼の問題点」は、彼が14年を振り返って反省した彼の手記から読み取ったことです。彼の手記では、家族への反省と謝罪が重要な位置を占めていました。そこでは、時間の経過の後に、許しと和解があったと思えるのです。そのAは、(家族の許しに会っても)「絶対に自分が許されたとは思うな」と自分を戒めています。そうは言いながらも、その地点から、Aは病気ではなくなり、更生に向かっての確実な一歩を踏み出したと思うのです。彼の謝罪の第一歩は、彩花ちゃんと淳君の遺族の方々に向けられたものではありませんでした。でもその時、彼にとっての医療行為は、もう不要であったと想像するのです。
 僕の言い方を誤解しないでください。加害者Aが本当の反省に行き着かなかったら、或いは病人だったら、被害者の(絶対に許さない)「憎しみ」に対峙して、謝罪ができるわけがないと言いたいのです。真の謝罪ができない。強い憎しみに向かって「謝罪する」ことはとても苦しい。そのような謝罪の(前向きな)心を持続するのは、誰だって容易ではないと思う。親が謝罪して拒まれ、損害賠償を提訴され、親の責任を問われて争い、そのような経過をAも少年院の中で知って行ったと思うのです。彼の被害者への謝罪は、どのようになされたか。それは手記の最後に書かれています。その一つを挙げます。

 「少年院を出て以来、彩花さんの命日である3月23日、淳君の命日である5月24日に、それぞれの遺族の方々に謝罪の手紙を送っていた。どれほど生活や気持ちに余裕がなくとも、それだけは欠かさずに続けた。」

 その手紙を書くために自分の精神を集中させて、いかに不安定になって行くかをAは、死刑に曳かれていく妄想を挙げて書いている。苦しい作業であることが伝わって来ます。彼が謝罪の手紙を書き続けることの難儀さは、手記を読んで初めて気付いたことです。被害者が忘れない場面を加害者であるAが克明に思いだし、ビデオを繰り返して見るように視る。その遺族の視線を背後に置いて視る。その辛さを抑えて、受け取る被害者の苦痛にまで思いを巡らしながら、なお「自分が1年をしっかり生きたかの確認」としても伝えたいと意思するまでになっている。
 しかし、そのような謝罪を受け取る被害者の遺族の方々の苦痛を、僕も想像します。癒されるものではないからです。自分の憎しみを新たにしなければその謝罪の手紙に対峙できない。そうでなければ、許してしまう。年を追うごとに重圧が増すとAは述懐しています。
 そのような行為をAは今も続けているのだろうか。「続けて欲しい」とも言えない。「止めよう」とも言えない。加害者と被害者の間の苦しいやりとり。とても重い行為であることが分かるのです。だから、少年の凶悪事件があるごとに引き合いに出されるマスコミのAの記事に悔しさを漏らす君の無念が理解できる。

 社会は君の生きることを次のように願っているのだろうか。
 世間の憎しみの視線を意識して生きること。憎しみに耐えて生きること。人間であると自分を思わない事。憎しみに屈すること。そして、憎しみを快楽と覚えるまでに慣れること。サディズムからマゾヒズムに体質を変える事。人の世に生きるとしても、深海の闇にじっとして浮上しないこと。絶望に打ちのめされて死ぬこと。
 しかし、Aはこのような猟奇的な世界に生きてはいない。現実には、僕たちと同じ空の下にいて、生きるのに精一杯な日々を送っている。身元証明のない中学卒の就職に苦労し、黙々と働き、職を変えてもまた働き、働いて得た金で生計を立てている。孤立しているけれど、身近に認める人々もいる。何よりも、不当なことは認めない怒りを持っている。なのに、無記名な己の存在に葛藤している。そしてこのような一切を含めて文字化し、手記として世に出したのです


2018-11-22

遣高麗使に関する悲話6(はや)

 遣高麗使に関する悲話6(はや)
 万葉集の歌の文字表記については、今までも「霹靂(かむとけ)」や「鬱瞻(うつせむ)→うつせみ」を持ち出して、漢詩の語彙に起源を求めて論じて来ました。でも、実際は誰にも分からないことです。何故ならば、万葉集の原本は今に伝わっていないからです。最初の文字表記が、どのような漢字だったかを知る手掛かりはないのです。ただ私の論拠は、「難解な文字表記は、古いものであろう」という想像に立っているだけです。後代に文字を写す場合、より難しい文字を採用するとは思えないからです。逆に最初の難解な文字(画数の多い字)をわざわざ写すのは、表意文字としての捨て去りがたい意味をあえて伝達していると理解するわけです。
 例えば「うつせみの」という枕詞は、記紀の逸話に語源を求めた結果、「現し身(うつしみ)→うつしおみ」という読みの変遷がありました。そのまま受け止めるには、こじつけたような感を覚えます。「うつせみ」という語彙自体が、現世の身を意味するならば、仏教概念がなければ導き出せない言葉になってしまうのです。その言葉を、伊勢斎宮だった大伯皇女が最初に使用すれば違和感が生じてしまいます。その大伯皇女の歌(巻2の挽歌)は、「宇都曽見乃(うつそみの)」という万葉仮名表記になっています。「鬱瞻(うつせむ)」を想像させる文字表記は、大伴氏の大刀自「坂上郎女の歌」にあったのです。「うつせみとうつそみ」を使い分けていた人は、大伴家持と巻1,2の編纂者だけでした。語彙とその文字表記一つから謎が生まれたり、紐解く手がかりが感じられたのです。その「うつせみ」だからこそ、「現し身(うつしおみ)」などという記紀逸話の言葉に語源を求めて行くよりは、漢詩の語彙「鬱瞻(うつせむ)」に意味を求めて行く方が合理的であると言いたいのです。そのような漢語の借用から出発していると。
 
 「可怜(はや)」も、両字に「忄(りっしんべん)」が付いている漢字と関係があるのです。漢字と言う表意文字と密接につながっていると思うのです。そこから出発して、国文学の重要概念とされている「あはれ」まで発展していくかも知れないのです。そのテーマは、ずっと先に置くことにして、目の前の課題である「長歌の類句」に戻ります。

2018-11-17

遣高麗使に関する悲話5(はや)

 遣高麗使に関する悲話5(はや)

 ○母にも背、吾にも背、弱草(わかくさ)の吾が夫(つま)はや
                     (書紀「仁賢天皇代の悲話から再掲」)
 
 最後に、上記の最後の部分「はや」の文字表記の問題を述べたいと思います。「はや」は「可怜(はや)」という漢字表記です。可にも「忄(りっしんべん)」が付いているのですが、漢字のワード変換がどうしてもできません。しかたがないので、以後、「可」を代用します。ちなみに、「忄(りっしんべん)」について漢和辞典で調べると、「心をもとにして出来た漢字。知情意の心理作用に関する文字を集めている」とあります。「可怜(はや)」の両字に「忄(りっしんべん)」が付いているのも表意文字の意味を選択しているからかも知れません。
 ところで、「はや」という語彙は、古事記のヤマトタケルの逸話にある記歌謡34番にも登場します。次の歌謡です。

 ○嬢子の床の辺に我が置きし つるぎの太刀 その太刀はや
(解訳)
 おとめ(美夜受姫)の床の辺に、私が置き忘れて来た太刀(草薙剣)。ああ、その太刀よ

 上記の漢字表記は「波夜」です。記紀歌謡の文字表記は、万葉仮名で統一されているからです。「はや」という語彙の意味からは、ヤマトタケルの逸話が根拠例とも言えるかもしれません。とはいえ、「可怜」を「はや」と読むのかを疑えば、疑いのあるところです。万葉集では、どうなっているのでしょう。そもそも「可怜(はや)」の表記なんてあるのかと言えば、それがあるのです。あるばかりか、読みは「はや」ではなかったのです。万葉集にある「可怜」の例を拾い上げて、その読みを次に挙げて見ました。

(万葉集にある「可怜」の表記例)
  巻ー歌番号  「読み」             歌の作者
① 1-   2  「可怜国(うましくに)そ」   舒明天皇の長歌
② 3- 415  「この旅人可怜(あはれ)」  聖徳太子の短歌
③ 4- 746  「かく可怜(おもしろく)」    家持の坂上郎女に贈った短歌
④ 4- 761  「わが児はも可怜(あはれ)」 坂上郎女の短歌
⑤ 7-1417  「可怜(あはれ)そのかこ」  読み人知らず
⑥ 9-1756  「可怜(あはれ)その鳥」   高橋虫麻呂歌集の歌
⑦11-2594  「可怜(あはれ)我妹が」   読み人知らず
⑧12-3197  「可怜(あはれ)と君を」   読み人知らず

 書紀の「可怜(はや)」は、集中では「うまし、あはれ、おもしろし」などと読まれているのです。いずれも心の感動表現(感激、悲嘆等)を表わしているとところから、「忄(りっしんべん)」が付く漢字表記になっているのかも知れません。つまり表意文字である漢字を、引用して活用していると思えるのです。注目すべき点は、日本語であろう「あはれ」を当てている点です。「あはれ」は、古今集仮名序に「目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女のなかをも和(やわ)らげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」として登場し、歌の効能の中心に位置づけられている概念です。それはまた、本居宣長が指摘した「源氏物語」の底流をなす概念の「あはれ」でもあるではありませんか。このような後世の日本文学の中核概念に結びついて行く「あはれ」が、書紀のこんな逸話の個所に「可怜(はや)」として隠れていたのです。

2018-11-10

遣高麗使に関する悲話4(若草の)

 遣高麗使に関する悲話4(若草の)
 万葉集では、「若草の」という枕詞が14首に登場します。14首中長歌は11首、旋頭歌は2首、短歌は1首です。短歌が1首だけなのです。10個以上の使用例がある枕詞で、短歌使用例が1首しかない。こんなケースは、「若草の」だけだと思います。集中の枕詞は、山口正氏によれば519種類(万葉集修辞の研究)とも言っています。14個の使用例がある「若草の」ならば、使用頻度数で順位づけると40番代に位置する枕詞です。その枕詞が、短歌が主流の集中でたった1首にしか使用されていないのです。長歌や旋頭歌は、短歌よりも古い様式だと言われています。単純に当てはめれば、「若草の」という枕詞は、古い時代の使用語だったと言うことになります。

 ところが、使用作者を見れば違うのです。人麻呂(人麻呂歌集を含む)3首、大伴家持3首、巻13の女性と思える作者3首、倭大后1首、大伴池主1首、七夕歌1首、「河内大橋を独り去く娘子を見る歌」(遣高麗使を見送った妻の姿、あるいは遣唐使を送った母を彷彿させる歌)1首、作者及び作歌事情不明の相聞歌1首。これが作者と作歌事情に基づく歌の区分です。巻13の作者を除けば、奈良遷都(710年)以前4首(人麻呂、倭大后)と天平17年(746年)以降4首(大伴氏関係)があるのです。万葉集を代表する古今の歌人が使用し、巻13の女性作者がからむという関係なのです。さらにこじつけると、私が述べて来た「七夕歌」「遣唐使を送る歌」と関係する歌が各1首存在するのです。また人麻呂歌集の旋頭歌2首も巻が違いながら、不思議な暗合を示すのです。と、まあ作者と作歌事情から知れる面白い点を挙げて見ました。

 記紀の言葉との比較で言えばどうでしょうか。①相聞の言葉ならば、巻13の1首、巻11、巻10の計4首があります。②離別歌の言葉ならば、巻9、巻20の計4首があります。③挽歌の言葉ならば、巻2、巻13の2首の計4首があります。家持と池主の書簡往来による池主歌を相聞の歌と見れば、①にはさらに1首が追加されます。残る1首は、巻7の旋頭歌です。区分に入れずに便宜的に悲歌としておきます。
 記紀の3つの区分「相聞」「離別」「挽歌」は、万葉集の13首の歌にもそのまま当てはまるのです。最後に残る「ああ」という嘆きの余韻にしても、「若草の」入る歌ではいずれにも該当しているのでした。その意味では「悲歌」とも言えるのです。

(資料):万葉集の使用例
 (枕詞に続く語)  (集の歌番号)(歌の様式)(作者)(歌の内容)
①-夫の思ふ鳥… 2-153    長歌 倭大后   挽歌
②-その夫の子… 2-217    長歌 人麻呂   挽歌
③-妻なき君は… 7-1285   旋頭歌 人麻呂歌集 悲歌
④-夫かあるらむ…9-1742   長歌 不詳    雑歌「悲別歌」
             注:上記歌の題詞「河内大橋を独り去く娘子を見る歌」               
⑤-妻が手枕と…10-2089   長歌 不詳    七夕歌(悲歌)
⑥-妻がりと…  11-2361   旋頭歌 人麻呂歌集 相聞歌
⑦-新手枕を…  11―2542   短歌 不詳    正述心緒 
⑧-思ひつき…  13-3248   長歌 不詳(女) 相聞歌
⑨-妻かあり…  13-3336   長歌 不詳(女) 挽歌
⑩-妻もある…  13-3339   長歌 不詳(女) 挽歌
⑪-脚帯(あゆ)… 17-4008   長歌 大伴池主 (相聞書簡) 
⑫-妻も枕かず… 20-4331  長歌 大伴家持  防人の悲別歌
⑬-妻は取り…   20-4398  長歌 同上    同上
⑭-妻も子も…   20-4408  長歌 同上    同上 


プロフィール

読み人知らず

Author:読み人知らず
 東北の田舎に暮らす退職者です。こんな年齢で万葉集を読み始め、読むほどに好きになりました。たくさんの人が万葉集について語っています。
 私も、巻13にある「読み人知らずの歌」を語りたくなりました。誰にも読まれずしんしんと埋もれていくとしても… 

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