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2018-12-07

 絶歌を読んで(11)

 絶歌を読んで(11)
 僕の君を励ます言葉は尽きたが、年長者としての助言を述べたい。生き方は違っても、君の「人間として」という観点ならば、僕も君に言う事が出来ると思う。君の手記から感じた、危うさを指摘して僕の助言としたい。

 人の役に立つ。信頼される。必要とされる。それが素直に嬉しかったし、自分もひとりの人間として社会に受け入れられたのだと自信にもなった…
 でも、そんな前向きな気持ちは、粉々に打ち砕かれることになった。
                                             (「居場所」の章の一文) 

 君は、打ち砕かれた例を2つ挙げている。1つは、職場の先輩で、君を評価し、アパートの保証人にもなってくれた人だ。その人から夕食に招かれて、断れきれずに君は行く。そのマイホームの夕食は、先輩と奥さんと小学生の娘さんを加えた団らんだった。娘さんと母親に迎えられ、「足のすくむような恐怖感にとらわれた。やはり自分は、ここへ来るべきではなかった。来てはならなかった。」と、君は感じる。食卓で何一つ答えられなくなる。「本当の事を答えられないのが辛かった」といたたまれない。そして君は、「食卓の途中で体調の不良を訴えて席を立ち、家まで送るという先輩の気遣いもはねのけ、逃げるように彼の家をあとにした。」と述べる。一人の帰途、君は辛く苦しい後悔の念に泣く。その思いを次のように書く。

 自分の過去を隠したまま「別な人間」として周りの人たちに近づきすぎると、本当の自分をつい忘れてしまうことがある。(略)どんなに頑張っても、必死に努力しても、一度一線を越えてしまった者は、もう決して、二度と、絶対に、他の人たちと同じ地平に立つことはできないのだと思い知る。

 その日を境に、先輩とまともにコミニュケィーションが取れなくなり、急に手のひらを返したように素っ気ない態度を取る僕を、さすがの彼も快く思わなかった。「何だよコイツ」と思われたはずだ。と君は結論する。

 2つ目の例が続く。同じ職場の中国人労働者の後輩との場面だ。Aが自分の弟に似ていると思い、親切に接し、指導している内に信頼を示してくれるようになった後輩に、ある日、使い捨てカメラで一緒に写真を撮ろうと言われる。

 屈託のない笑顔で、彼が言った。中国で暮らす家族に自分と僕の写真を送りたいのだという。僕の全身が強張(こわば)った。―苦手だからとAは断るが、後輩はシャッターを切る…次の瞬間、僕は彼から乱暴にカメラを取り上げ、床にたたきつけ、踏んで壊した。ハッと我に返って彼の方を見ると、普段の姿から余りにかけ離れた、常軌を逸した僕の剣幕に強いショックを受けたのか、怯えた眼で見つめていた。とんでもないことをしてしまったと思った。僕は財布から千円札を抜き取り、ごめん、と謝って、彼に差し出した。後輩の眼が怯えから悲しみに変わった。(略)お金を受け取らずに無言で立ち去った。僕は激しい自己嫌悪に襲われた。

そして、君は自己嫌悪の中で懊悩する。

 ―自分は人の命を奪った人間なんだ。(略)被害者の遺族を今も苦しめている人間なんだー 
 という実感が、一気に身体じゅうに拡がって、扉の向こう側が、本当は自分が居てはならない遠い世界のように思えた。「社会の中で罪を背負って生きて行く」ということの真の辛さを、僕は骨身に沁みて感じるようになった。


 読者には、君の苦悩がより実感できる記述に見えるかも知れない。だが、僕にはこの2つの場面が不快になる。2人になり代わって言えば、「何だ!コイツ」でしかない。人の善意をぶち壊して、独り訳の分からない言動を取っている。コイツは一体何者だ? 実際、先輩には、後日のきちんとした謝罪がされていないし、中国人の後輩には、千円札を出して詫びる非礼さだ。挙句は、被虐的な自己の煩悶で真の辛さを感じたと読者に言う。そして、現実の君は、辞表を出して逃亡して行く。

 Aの良心の呵責を思うことはできるけれど、Aの意志する道は後ろに付かないと思う。憎しみの視線に折れて、絶えず怯えている元人殺しでしかない。「影の無い男」が、自分の正体を知られる恐怖に怯えて逃げて行く。僕は、そんな逃げて行く男を想像してしまうのだ。
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2018-12-06

 絶歌を読んで(10)

 絶歌を読んで(10)
 Aが最後の章「道」に書いた最後の一文、彼の人生への思いである。

 どんなに遠廻りしても、どんなに歪(いびつ)で曲がりくねっても、いつかこの生命(いのち)の涯(はて)に後ろを振り向いた時、自分の遺した足跡が、一本の道になるように。 

 君が社会の眼を意識して生きるならば、君の一本の道はどうなるのだろうか。僕は、意地悪く考えて見る。世間は、人殺しの生きた道なんかに誰も興味がないだろうし、人の世からはぐれた自業自得の運命に生きよと望むだけだろう。その望みとは、「影の無い男」のように生きることだ。ひっそりと人ごみに紛れて生きること。でも影の無いことに誰もが気付く。そのために正体がばれることを絶えず怯えて、妻子も無く、隣人も無い、人の善意を怖れ、たった独りで流浪の中を生きていく。「影の無い男」の示す教訓は、影を持つ男の世界からの戒(いまし)めでしかない。「影の無い男」の考えや悲しみは語られず、救済も語られない。男の生きた道は、破滅として語られ、闇とともに閉ざされている。

 僕は、君の「道」と言うならば、それは君が泣いた者のために歩む「道」だと思う。そのような道を思い、進んでいくべきだと思う。例えば、弟たちが君のために泣き、「いつまでも兄だ」と叫ぶ言葉が、君の闇夜の道標(みちしるべ)であって欲しい。あるいはまた、君が泣いた殺人鬼「山地悠紀夫」の絶望に指し示す道であって欲しい。憎しみの視線に折れた道ではなく、これからも生まれるかも知れない君と同じ絶望者への道標(みちしるべ)となる道、そのような光る道であるべきだ。これからも、君が涙する者が現われる時、君が涙して歩む一歩が君の道を作って行くと信じたい。それがどんなに遠回りでも、歪で曲がりくねっていても、被害者の遺族に示す唯一の償いの道だと僕は考える。

 それに君は知らないだろうが、君を守ったのは「少年法」だった。そのために君の今がある。君を守ったばかりに、あの「少年法」は死んでしまった。「16歳に満たない少年は検察官に送致できない」という少年法の但し書き条文は、今はもう無い。これから君のような事件を犯す少年が現われたら、刑罰が科されて、保護処分(少年院)から刑罰(刑務所)へ移動した長い期間を社会から隔離される。矯正教育の後に刑罰が科されるのだ。君のために保護処分の理念は、刑罰の下に萎んでしまったように思える。君は、保護処分に助けられた最後の人殺し少年なのだ。その短い収容期間の矯正教育が、君の更生に寄与したかは分からない。でも、君は一人立ちし、社会の中で今を更生して生きている。君の生き様は、そのような世界にとっても希望であるべきだ。少年法の萎えた理念を君の足跡で、いつかもう一度輝かして欲しい。


2018-12-05

絶歌を読んで(9)

絶歌を読んで(9)

 ―自分が奪ったものはこれなんだー
 とおもった。それは何でもない光景だった。でも、他の何物にも代えがたい、人間が生きることの意味が詰まった、とてもとても尊い光景だった。
 自分が被害者の方たちから奪い去ってしまった「何でもない光景」を、僕は体感した。自分が、そこにいてはならない汚らわしいもののように感じた。僕はベンチを立ち、(略)陽なたの世界から、逃げるように立ち去った。


 「絶歌」は、事件から20年を経たモンスターが社会に再び向けた挑戦状ではない。怨みや憎しみのメッセージでは無く、その後の更生をひけらかすために書かれた手記でもない。更生の途上にいる人殺しの反省と謝罪を込めた生き様の手記だと思う。
 しかし、人殺しが書いた手記に変わりはないので、社会が受け入れることは少ないと思う。平和な社会の絶対悪を三重の残酷さで犯したAは、マスコミによって誰もが知っており、例えAがどのように謝罪しても懐疑の眼で見つめるのだと思う。被害者の遺族はさらに絶対に許せないと思う。それはAが自分の行為を振り返り、自分を絶対に許さないことと等号で結ばれている。
 Aが自分を許さないと心から思った最初の気付きは、被害者ではなかった。彼は、自分一人がめちゃくちゃになったのではなく、両親と弟たちが、親族がめちゃくちゃになったことに気付いたのだった。だから家族に謝罪し、家族から許されても、自分がもう許されないことを気付いたのだ。「憎しみの殺人」からAが失ったのは、自分だけでなく、「家族の日常(平和)全て」だった。A個人の生と死の破壊だったつもりが、彼が反省で思い至ったことは、Aの家族にあった日常(平和)の破壊とAと同じ運命を背負わされた家族の姿だった。本人は、その気付きに立って初めて被害者の痛みを知ることができたのだと思う。手記を信じるならば、Aは自分の行為(殺人)を絶対に許さないし、家族に許されても自分を許さない。自分の犯した「憎しみの行為」に苦悶している。

 被害者の遺族の気持ちを重ねて僕は考える。Aのために大切な身内を亡くした人々を思う。その人々にとって、愛する子は永久に帰って来ない。喪失の悲しみは、悲しむ時間の経過で癒されていくべきものなのに、被害者の遺族の方々には、その死と殺したAの残酷さが一緒に記憶されて甦るのだ。悲しみが残酷さに穢されて、悲しみを悲しむことができない。Aへの憎しみが湧いて悲しみを悲しむことができない。悲しみが癒されないので、憎しみが記憶と共に続く。遺族の方々の不幸な思いを、僕は痛ましく想像する。社会の人々も、被害者の心を疑似体験してAを憎む。Aの更生した姿と言っても、死んで帰らぬ人の姿と並べれば、憎しみの記憶が甦るのだ。

 そうして僕は何を言いたいのかと言えば、それでも君を励ましたいと思う。君に助言を述べたいと思う。ネット宇宙という闇と孤立した星の光と、思考の自由があると信じたい空間に、僕の感じ考えたことを飛ばしたいのだ。君に届いて欲しい。
2018-12-03

 絶歌を読んで(8)

 絶歌を読んで(8)
 テレビ番組の討論で十代の少年が発した「どうして人を殺していけないのですか?」という問いが話題になったことがあった。その場面について、Aは「もし自分が問われたらこうとしか言えない。」と述べている。
 「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」

 どうして人を殺していけないのか。この絶対悪を「なぜ?」などと問う少年に、当時の大人たちは困惑したのだと思う。僕も、なぜもへちまもないものだ。やっては絶対いけないことなのだと。と怒りを覚えたものだった。
 
Aは「哲学的なひねりもない、こんな平易な言葉で、その少年を納得させられるとは到底思えない。でも、これが、少年院を出て以来11年間、重い十字架を引きずりながらのたうちまわって生き、やっとみつけた唯一の、僕の「答え」だった。」と述べている。

 この少年の質問は馬鹿げているが、とても意味深長なのだと思う。少年の質問は、不快で馬鹿げている。が、誰もが薄々分かっていることなのだ。それは「人間が人間を殺せること」、「人殺しなんて誰だってできること」を。平和な社会にあってのみ語られる絶対悪なのだと。戦争が生じたら殺人は正当化されてしまう。生と死の極限状態である戦闘の場で、社会の美徳である善良さや良心など何の意味もなさなくなるだろう。
 そのような戦争時の問題は、戦後の文学で戦地経験をして来た作家達によって描かれている世界だ。戦争をくぐり抜けて来た人たちに広く浸透した人間の苦悩だった。そんな時代の片鱗も消えた、豊かな国に生まれ育ったひ弱な少年の馬鹿げた質問。そこに怒りが沸いたのだと思う。その僕とAを対峙してみる。僕は、Aの言葉の方が質問者に対して、説得力を備えているような気がしてしまう。

2018-12-02

絶歌を読んで(7)

 絶歌を読んで(7)
 彼は、漫画「行け!稲中卓球部」の作者古谷実が、その後に描いた漫画「ヒミズ」と「ヒメアノ~ル」にはまっている。特に「ヒメアノ~ル」を読んで泣く。「あの頃の自分だ」と感じて、漫画を読んで初めて泣くのだ。漫画の主人公「森田正一」にAは、自分と殺人犯「山地悠紀夫」を投影して泣く。自分の「性サディズム」と山地の[人格障害]を重ねたようだと。その山地は16歳で母親を殺し、少年院に入り20歳で出院した。更生保護施設を経由して社会復帰するも、大阪姉妹刺殺殺人事件を起こし、25歳で死刑執行されている。抗告を勧めた弁護士に次のような手紙を書き残す。Aは、次の一文に胸が締めつけられたと述べている。

 ① (上訴は取り下げます)私が今思う事はただ一つ「私は生れて来るべきではなかった」という事です。今回、前回の事件を起こす起こさないではなく、「(私の)生」そのものが、あるべきでなかった、と思っております。(山地の手紙の一文)

 Aは、山地の一文に事件当時の自分を重ねているのだと思う。そしてまた、古谷実の漫画を読んで泣き、山地の逮捕時の貌「あれほど絶望した人間の顔は見たことがない」という貌を思い出す。山地という他人に感情移入し、そう言い表わしているAを思う。Aは次のようにも述べていた(②は①以前に書かれている)。

 ② 山地は(再犯殺人の)逮捕後、いっさいに後悔や謝罪の言葉を口にしなかった。そればかりか、「人を殺すのが楽しい」「殺人をしている時はジェットコースターに乗っているようだった」などとうそぶいていた。それは「必死にモンスターを演じているように見えた」「…その姿は、とても痛々しく、憐れに思えた。」

 このようなAの記述から僕が言いたいのは、「殺人が愉快でたまらない」と嗤ったモンスターの20年後の心だ。この言葉は、狡猾に成長したモンスターの偽りの言葉なのだろうか。悪意を隠した心なのだろうか。進化した悪意が、善意の人々を騙し、さらなる殺人を犯すために牙を研いでいる。簡単に信じてはいけない。少年院で受けた教育効果など怪しい。より狡猾な悪に注意を払うべきである。などと僕は言うべきだろうか。
 しかし、漫画に想像力をもって共感し、泣けたという心を疑う人は、人の世でどんな心を信じるのだろうか。言葉は誰でも操れるので、疑えば誰だって怪しい。でも僕は、漫画を読んで泣く人が好きだ。不幸な人を自分に重ねて思いめぐらす人は、無条件に好きだ。だから僕は、そんなAに単純な好感をもつ。そのような感情を表現できるAを信用する。

 Aが被害者の遺族に謝罪の手紙を続けたのは、義務にかられた継続ではなく、このような心をもつまでの曲折した経過を辿ってだった。

 「自分が1年をしっかり生きたかの確認」として謝罪し、遺族に報告するという言葉に、僕は感銘を受ける。「新天地」、「流転」、「居場所」と変遷した彼の生き様を付けて、彼の行き着いた「ちっぽけな答え」(Aの言葉)だったと思う。そのちっぽけな答えに、僕は泣きたくなる。
 なぜなら、保護処分の中身、刑罰と教育の矛盾する狭間で行われている矯正教育。非行少年に求めている理念。矯正教育に携わる現場職員の祈念が、20年後のモンスターによって体現されて、語られているからです。彼の言葉を疑うならば、矯正教育に携わった人は自分の仕事を信じていなかったに等しい。
プロフィール

読み人知らず

Author:読み人知らず
 東北の田舎に暮らす退職者です。こんな年齢で万葉集を読み始め、読むほどに好きになりました。たくさんの人が万葉集について語っています。
 私も、巻13にある「読み人知らずの歌」を語りたくなりました。誰にも読まれずしんしんと埋もれていくとしても… 

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