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2018-08-19

国文学の「ウタ」について(10)

 国文学の「ウタ」について(10)

 霹靂(かむとけ)の 光れる空の……
 前ブロブの長歌の冒頭句「霹靂(かむとけ)」は難しい漢字ですが、今でも使用されている漢字の熟語です。「晴天の霹靂(へきれき)」などと言う立派な使用がなされているのです。この霹靂は、雷鳴を意味しています。出典は、12世紀の南宋の詩人陸遊の詩文です。万葉集歌の使用が先に思えますが、中国語の語彙に古来から「霹靂」があり、それを陸遊が使用したに過ぎないと考えます。つまり巻13の女性歌は、中国の文字言葉(熟語)をそのまま使用して「かむとけ」と訓読しているのです。この言葉が、熟語の意味をも踏まえた日本式詞章(神語)になっていると、私は思うのです。9月の空(旧暦なので今ならば10月を指すでしょうか)に稲妻が走り、雷鳴が鳴り響く…何か運命の急変を感じさせる不吉な場面が走り出したのでしょうか。そんな長歌の出だしです。中国の熟語の意味を踏まえて、「神の時(かむとき)」という日本式詞章が、違和感なく長詩を詠い出しています。そして、13連句が全て「秋の赤葉(もみじば)」に掛かっていく構文です。何と8句までが、「の」という格助詞で作られた語彙で占められています。

 日本式詩賦の発明は、漢詩の音数律(五言と七言)を意識したところから始まったのだと述べました。中国語の「天(ten)」は1音だと思うのですが、対応する日本語「天(あめ)」は2音節です。偶然なのか、訓読上の対応でそうなったのか分かりませんが、「春・夏・秋・冬」も日本語では「はる・なつ・あき・ふゆ」と2音節です。「天地(tenti)」の2音節に対して「あめつち」の4音節のような関係が、成り立っています。後は「の」という格助詞が付けば、容易に5音節の言葉が作られるのです。私の稚拙な思いつきに過ぎないかも知れません。ですが、漢字の訓読が日本語の語彙を飛躍的に増やしたことは事実だと思うのです。そして、そのような教養を得た者が、万葉集歌の最初に存在したと想像するのです。その人は歌人だったのではなく、斎宮として登場したのだと言いたいのです。神語の詞章を駆使する女神として、万葉仮名による詩文(長歌)を作り、朗々と詠み上げたのです。参拝した人々は神々しい少女の姿に感激し、地に伏してその美しい神の声を聞いたに違いありません。それはまた、全国の神社に歌木簡によって伝達された…そんな想像までも掻きたてるのです。

 「霹靂(へきれき)」という熟語から、万葉仮名の訓読を導いて述べましたが、それは「うつせみの」という大伯皇女の挽歌に登場する枕詞にも言えることです。「うつせみ」は「現し身(うつしみ)」という古代日本語から変遷したと言われました。しかし、読みが該当しないと分かり「うつしをみ」という語源に移動しました。この枕詞も巻13の長歌に2個登場します。「うつそみ」から「うつせみ」に変遷した言葉と解されています。しかし、この言葉には「鬱瞻(うつせみ)」を当てた例(坂上郎女の歌)がありました。中国の文字(漢字)「鬱(うつ)」は草木の繁茂する様や気のふさぐ様を指しています。「瞻(せん)」は「瞻見」で遠くを望むなどの意味になります。呪的な意味をもっている漢字です。詩では、「瞻彼~」などとして使用されている文字でした。「うつせみの」という枕詞も、もしかすれば漢字熟語「鬱瞻(うつせん)」から導き出された詞章(神語)では…として、前ブログで述べてきたものです。
 このような思い込みを入れて巻13の長歌を眺めると、女性と推定する歌に際だって「○○の」という修飾句が多いことに気付かされるのです。その最も特徴的な長歌として、13連句の修飾語(序詞)を持つ3223番歌を例示して見たのです。
 

 万葉集巻13の女性歌は、今さらに言う間でもなく大伯斎宮を想像させる歌が並んでいます。否、斎宮の歌と言うよりは、大伯皇女と大津皇子の相聞歌として成り立っているのです。それらは、相聞歌本来の意味での書簡往来歌として歌われていると考えます。、雑歌と言う最初の部立ては、2人の物語の古い出来事を詠った歌です。ここには、万葉集歌の叙事と抒情がすでに成立しています。私は、すでに巻13雑歌の歌を解釈し終えました。その立場で巻13の雑歌を、大伯皇女と大津皇子の物語(叙事)を、万葉集の歌にある(心を種とする)抒情を、力説したいと思います。

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2018-08-18

国文学の「ウタ」について(9)

 国文学の「ウタ」について(9)

 霹靂(かむとけ)の 光れる空の
 九月(ながつき)の 時雨(しぐれ)の降れば
 雁(かり)がねも いまだ来(き)鳴かず
 神南備(かむなび)の 清き御田屋(みたや)の
 垣内田(かきつだ)の 池の堤の
 百(もも)足らず 斎槻(いつき)が枝に
 瑞枝(みずえ)さす 
 秋の赤葉(もみじば)
 (以下略)

(解釈)
 稲妻が空に光り
 九月の時雨が降りそうな空は
 渡ってくる雁も、まだ来て鳴かない。
 神南備のふもとにある 神の御田屋の
 垣(かき)の内にある稲田の、用水池の堤に生えた
 百年には足りないが、年経た斎槻(いつき)の木に
 瑞々(みずみず)しい枝をさしのべる
 秋の美しいもみじ葉よ
 
 巻13雑歌の部にある3番目の歌(3223番)です。歌中で「君」と呼びかけているので、女性の歌と解釈されています。この歌では、「かむとけの、神南備の、百たらず、瑞枝さす、斎槻が枝」などの枕詞が入っていますが、これらの言葉はどう見ても日常用語には見えません。そればかりか、上記の構文「かむとけの(5音)→光れる空の(7音)→……→秋の赤葉(7音)」は、最初から13句までが全て「秋の赤葉」に掛かる修飾語になっているのです。このような修飾句は、序詞と言われています。枕詞は、序詞の中で5音節を成す言葉を特化して言っているだけなのです。この長歌では「秋の赤葉」のために、何と13連もの修飾句を頭に付けているのです。たった一つの言葉を導き出すために、長々しい展開がなされているのです。万葉集歌の中でも、最長の修飾句だと思います。序詞とか冠辞と言われる用法の最長例ではないでしょうか。万葉集中でも特異な長歌です。その特異性を論じて、詩賦(漢詩)との関連及び大伯皇女に言及して見たいと思います。

 この長歌では、5音と7音の言葉が、連想ゲームのように次の言葉(イメージ)を引き出しています。言葉は次の言葉の修飾語となって終わり、次の言葉もまた修飾語となって終わるのです。かむとけの(光)→光れる(空)→空の(九月)→九月の(時雨)→時雨の(降る)→(略)→神南備の(清き)→清き(御田屋)→御田屋の(垣内田)→垣内田の(池)→池の(堤)といった言葉のつながり方をしているのです。言葉の調べは流麗で、次々に事象、事物、場所が明らかにされていきます。その最後にある「秋の赤葉」に、全ては掛かっているのです。
 この長歌を「まわりくどい…」と言ってしまえばそれまでですが、目を瞑(つむ)り心を澄まして聞くと、修飾句によって、視覚的なイメージがどんどん呼び起こされて来ます。呪文のような活力が感じられます。この長歌は、歌謡と言うよりも5音の枕詞を見れば、神語の詞章です。祝詞の形式に近いのではないでしょうか。

 しかし、歌われている内容は神事とは無関係のようです。作者の個人的な記憶の中にある一つの情景です。呪文のように唱えて導き出しているイメージは、流麗な5音と7音の詞章(詩の言葉)によって、「秋の赤葉」に集中して行くのです。たった一つの言葉「秋の赤葉」が、この作者の心の種となっているのです。心の種があるこの長歌は、反歌との関連で難解歌とされています。私は、大伯皇女の歌として弟大津皇子との関係をもって解釈しました。万葉集編纂者も、この秘密を知っていたのだと思います。「もみじば」の標記「赤葉」は、集中でたった一か所、この長歌の「秋の赤葉」だけです。集中では「黄葉」の標記を習いとしているのです。編纂者も、集中の歌でこの長歌が特異で意味があることを認知していたと想像します。その上でわざと元の字「赤葉」を残したと考えるのです。
 でも今は、そのような特異な「秋の赤葉」であることを念頭に置くだけで、まずは修飾語「序詞」について論じて行きます。
2018-08-17

国文学の「ウタ」について(8)

 国文学の「ウタ」について(8)
 日本文学の発祥を口誦文学に遡(さかのぼ)らずに、もっと具体的な文字詩につなげて考えると、詩賦(中国文学)の存在を無視するわけにはいきません。唐の時代、科挙の試験で中枢を占めた詩賦です。国家が重視する実用的な試験科目だったと考えられるのです。その詩賦(漢詩)は、律法や仏教と同様、遣唐使たちが持ち帰った重要な中国文化でした。日本の国家形成の過程で活用された大切な文化情報だったはずです。このような観点で考えれば、天武天皇が積極的に推進した天神地祠の国家祭祀が注目されるのです。国家祭祀における神語の詞章(ことのは)として、詩賦の活用があったのではないかと想像するのです。

 それは、天武天皇が伊勢斎宮に大伯皇女を遣わしたことから始まります。斎宮の役割は、天皇(神)の御杖代(みつえしろ)でした。神社の巫女(みこ)などという奉仕者ではなかったと思います。天皇の第一位の皇女が、畿外の国に下ったのです。日本書紀を見渡せば、大伯斎宮以前にも複数の伊勢斎宮の記事が見られます。しかし、それは実体のない斎宮の就任記事や密通の逸話でした。そもそも壬申の乱以前に天皇家の祖先神が伊勢に祀られていたならば、1巻を要して記述された天武天皇(壬申の乱の部分)巻に、伊勢神宮が登場しないのはありえないことです。推古天皇以後から見ても、日本書紀に伊勢神宮の記述は一つも見当たらないのです。
 どう見ても天武天皇が遣わした大伯皇女こそが、初代伊勢斎宮だと考えられるのです。そして、天武天皇の推進しようとした天神地祠の国家祭祀政策が、伊勢神宮の意義を今日に正統化しているのです。天皇を神とするピラミッド型の祭祀を、全国に発信するために設けられた司令塔だったと。

 伊勢斎宮は、伊勢国にとって降臨した女神のようなものだったと思います。当然大伯皇女は、神の代理として神語を持って祭祀に向かい、伊勢国の人々に宣下する必要がありました。その宣下は、伊勢国のみならず各国の神社に向けても伝達して行く使命を担っていたはずです。既に定着していた畿内の有力神社を抑えて、上位に立って神の言葉を発して行く使命を。その神語は、律法用語やお経ではふさわしくなく、歌謡や呪文のような口語でもない何か荘厳で美しく、かつ女性の言葉に適する言葉が、必要だったのです。それが神語の詞章(五音と七音による章句)の発明だったと思うのです。折口信夫が日本文学発生序説で展開した詞章(ことのは)は、歌になる以前、神語の呪詞(となえごと)に起因したと論じています。論の趣旨は、違う結論を導いていますが、この意味においてこそ神語の詞章の起因があるのだと考えます。
 その大役を天武天皇2年4月に13歳の少女が担ったのです。泊瀬斎宮で1年間の潔斎を行ったのは、神に徐々に近づくためと述べられています(日本書紀)が、斎宮になるための準備期間であったと思います。そこで彼女が学んだものこそ、詩賦の理念と漢詩の訓読、万葉仮名による日本式詩賦(神語の詞章)であったと想像するのです。
2018-08-15

国文学の「ウタ」について(7)

 国文学の「ウタ」について(7)
 口誦文学から和歌が成立したという論には、2つの大きなハードルがあります。1つは、形式の問題です。「5-7-7(片歌)」「5-7-5-7-7(短歌)」「5-7-5-7…-7-7(長歌)」のような定型が、歌謡や呪詞を要する神事からどうして生まれたのかという点です。2つは、和歌のテーマという問題です。万葉集の歌にある(心を種とする)抒情は、口誦文学の発展上に本当に成立できるのかという点です。

 漢詩は、5音、7音をもってする文語定型詩です。他に韻を踏むなどの種々の約束事があります。この漢詩を現在でも日本人は、訓読という方法で読んでいます。訓読は読み方だと考えてしまいますが、日本語訳の読み方だというのが正しいようです。文字を持たなかった日本人が、中国語の文字から日本語訳を行いその日本語で読むようになる。それが訓読だとすると、漢字の渡来から訓読が出来るようになるには相当な期間を要しただろうと思われるのです。つまり、万葉仮名(漢字)が使用できなければ、和歌は作れないと考えた方が正しいかも知れません。
 第一、子供みたいな単純さで言えば「五言、七言」って、漢字を文字とする中国人の定型詩における「音数律」のことじゃないですか。それは、和歌という定型詩の「音数律」である「5音、7音」と同じものじゃないのか。この指摘にどこか間違いあるならば、誰か教えて欲しいです。口語から発展したはずの日本の和歌は、定型詩における「韻数律」がないのです。短詩の規則は、「音数律」と「句数律」のみです。だからこそ、日本の短詩は漢詩よりも自由な感情を発露できる形式を備えた。とも言えるのですが。
 万葉集の歌にある(心を種とする)抒情は、口誦文学の叙事の後にできた。そのような論を多く読みます。万葉集歌の叙情は、男女の相聞に発するものが半数以上を占めています。もっと多いかも知れません。相聞歌の愛は、記紀歌謡に見られた性的な大らかさで彩られていませんでした。秘密の愛や離別の愛、愛の苦しさを訴えるものが主流だったのです。その心の愛は、挽歌にも乗り移って表象されていました。古代人の労働歌や歌垣、祭りなどから生まれることが出来そうもないテーマなのです。

2018-08-14

国文学の「ウタ」について(6)

 国文学の「ウタ」について(6)
 記紀歌謡の6割は、たった5人の天皇代に集中して掲載されていました。その歌謡に登場する枕詞は、古事記―32個、日本書紀―33個です。65個中重複する枕詞を除くと47個。記紀歌謡の枕詞は、47個なのでした。その中で地名に冠する枕詞は18個です。万葉集の枕詞は、398個(新日本古典文学大系の枕詞索引による)、この中で地名に冠する枕詞は154個です。双方の出現率は、ほぼ同じ38%なのでした。今まで述べて来たことの繰り返しは省略して、要点だけを以下にまとめて見ます。

(1)記紀歌謡と記紀の逸話は、あまり一致していない。
(2)記紀歌謡の枕詞数(47個)は、口誦歌を裏付ける数としては少ない。
   例(万葉集巻13と比較すると)
           歌数    枕詞(出現率)
  ○古事記   103首   32個(31%)
  ○日本書紀   99首   33個(33%)
  ○万・巻13  127首  108個(85%)

(3)記紀歌謡の枕詞が万葉集に影響を与えたとは言えない。
   全体数が少なく、地名に掛かる枕詞も万葉集歌の使用例が少ない。
(4)万葉集の巻で見れば、記紀歌謡の枕詞を最も包含するのは巻13歌である。
(5)現在の学校教育で示す基礎的な枕詞は、巻13に多く存在する。
  ○中学受験資料の枕詞30個中73%が巻13にある。
(6)国魂の籠った目立つ枕詞(6個)が巻13に全てある。
  ○6個:「葦原の」「秋津島」「敷島の」「そらみつ」「つぎねふ」「神風の」
(7)神霊の宿る詞章は、記紀歌謡よりも巻13の歌に強く漂っている。
(8)記紀歌謡の逸話は、万葉集歌にほとんど反映されていない。
(9)記紀歌謡の内容と逸話は、整合しなくても次のような場面が多い。
  ○国誉め(国見歌)、○宴会歌、○行幸の駕歌 ○相聞歌
(10)記紀歌謡の相聞歌、関連の枕詞や逸話の種は、巻13の歌と関係する。

 日本の最も古い書物は、推古天皇代に出来ていたと推定されています。日本書紀によれば、大化の改新時、蘇我蝦夷が書物を焼失させて滅んだために失われたと言われています。これは変な記述です。天皇家が滅んだわけではありません。百済国と深く交流して得た蘇我家の漢文書ならば、理解できます。朝廷に関係する文書ならば、天皇家に保管されていたはずなのです。もし、天皇家に関する古文書が当時あったとすれば、焼失したのは壬申の乱でなければなりません。多くの漢詩が失われたという記述を見れば、当然多くの古文書が失われたはずなのです。
 私は根拠もなく思うのですが、日本人の手によって書かれた文書は、大化の改新(645年)以降に生まれたと。渡来の漢文書や渡来人が書いた文書ならば多数あったかも知れません。しかし、日本語の文はまだ何も出来ていなかったのだと。第1回遣唐使派遣は、舒明天皇の時代(630年代)です。大化の改新後に活躍する、僧旻や南淵請安などがこの時点から登場しています。それでも本格的な遣唐使派遣は、654年(白雉5年)から669年(天智8年)までの15年間に5回も行われた時期なのです。明治維新が大化の改新に準(なぞな)えられたのも、海外の大文化流入という激変の時代が重なっているのだと思います。体制が一変するような激動の時代だったと思うのです。過去のゆるやかな推移とは比較にならない速さで、中央集権の国家形成が成されていったと考えます。この時代に、日本式の新しい漢字使用が始まったのです。漢文の訓読を通して、日本式漢字「万葉仮名」が生まれたと推測するのです。

プロフィール

読み人知らず

Author:読み人知らず
 東北の田舎に暮らす退職者です。こんな年齢で万葉集を読み始め、読むほどに好きになりました。たくさんの人が万葉集について語っています。
 私も、巻13にある「読み人知らずの歌」を語りたくなりました。誰にも読まれずしんしんと埋もれていくとしても… 

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