FC2ブログ
2018-10-20

万葉集長歌の類句―山上憶良の長歌(5)

 万葉集長歌の類句―山上憶良の長歌(5)
 万葉集に謀叛死した皇子の関連歌が、3人も登場する。何でもないようで大変なことだと思うのです。例えば、明治時代の謀叛事件と言えば大逆事件があります。12名もの人がテロリストとして死刑となったのです。その一人大石誠之助に対して、佐藤春夫が「愚者の死」という同情詩を書いています。その詩を次に載せて見ます。

 愚者の死
 1911年1月23日
 大石誠之助は殺されたり

 げに厳粛なる多数者の規約を
 裏切る者は殺されるべきかな

 死を賭(と)して遊戯を思ひ
 民族の歴史を知らず
 日本人ならざる者
 愚なる者は殺されたり

 「偽(いつわり)より出でし真実なり」と
 絞首台上の一語その愚を極む

 われの郷里は紀州新宮
 渠(かれ)の郷里もわれの町

 聞く
 渠が郷里にして わが郷里なる
 紀州新宮の町は恐懼(きょうく)せりと
 うべさかしかる商人(あきうど)の町は歎(なげ)かん

 ――町民は慎めよ
 教師らは国の歴史を更にまた説けよ

 春夫19歳の時、刑死した同郷の医師「大石誠之助」を悼む詩を作り、雑誌「スバル」に掲載されたものです。春夫の家も代々の医師で、同郷人の刑死は他人事ではなかったのだと思います。春夫以外でも反逆しした人を悲傷した詩はあるのかも知れませんが…有名な詩を私は知りません。かように近代においてすら、反逆罪で刑死した人を詠った詩は稀有なのです。大逆事件は、歴史的には無実であったと言われています。上記の詩は、刑死した人への強い同情をもって書かれた詩なのです。
 私がこの詩を例示したのは、一見何の哀悼もなく死者を嘲笑しているかのようなくぐもった感情で詩が書かれているからです。官憲の追及を恐れてカモフラージュがなされている詩だと思うのです。19歳の若者の純情哀切な心情が表出されてはいないのです。その後に書かれた人妻への恋情を詠った「秋刀魚(さんま)の歌」と比較すれば、心の表出の違いが明らかです。それでも春雄が刑死した人を詠ったという19歳時の詩は、近代詩の中で特筆されているのです。
 万葉集の時代にあっては、天皇は現人神でした。明治時代以上の専断な強権が確立した時代です。その中の有間皇子(658年死)と大津皇子(686年死)は、すでに過去の人であったかも知れないけれど、長屋王(729年死)は聖武天皇の治世下でした。このような3つの死につながる歌と山上憶良の歌が関連していることに気付き、その意義はとても大きいことを指摘したいのです。
そして私の妄想は、憶良の歌が過去の逸話を素材にして感情移入した歌、例えば「建部牛麻呂の歌(813・14番)」や「熊凝(くまごり)のためにその志を述ぶる歌(886~891番)」等を読むと、有間皇子の事件にも後代に感情移入して創作されたのではないかなどと広がり、さらに万葉集編纂者の意図的な配置すら思ってしまいます。そして、このような歌が盛り込まれていること自体が、万葉集の奥深い意義を形成していると感動するのです。
 ところで、今まで有間皇子と長屋王については、憶良の関連を挙げて来ました。大津皇子の歌と憶良の歌の関連は、まだどこにも見当たりません。その関連を巻13長歌の類句で、これから述べて行くのです。

スポンサーサイト
2018-10-14

万葉集長歌の類句―山上憶良の長歌(4)

 万葉集長歌の類句―山上憶良の長歌(4)
 万葉集に有間皇子の挽歌があり、なぜ後代の歌人憶良の歌が関係するのかを考えて見ます。万葉集全体を見渡せば、皇子の辞世歌があるのは2名だけです。有間皇子(658年)と大津皇子(686年)です。その他に辞世歌はないけれど同様に謀叛死した長屋王(729年)がおり、関連歌が載っています。憶良との関係で言えば、有間皇子は生前の見知らぬ伝承の人です。大津皇子は同世代だが実際の交渉はなかった人です。長屋王は風流人のパトロンとして名高く、憶良もある意味尊敬した人であったと思います。
 有間皇子の挽歌と関連歌は先に述べたように巻1と巻2にありました。大津皇子の挽歌も巻2と巻3にあります。巻2には姉の大伯皇女の歌が4首載っています。このブログでも最初に解釈を行って来た歌です。大津皇子の実際の挽歌は、巻3挽歌の2番目にあります。その彼の辞世歌を次に挙げます。

2-416(挽歌)
 ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を
                 今日のみ見てや雲隠りなむ
(全訳注)
 百に伝う磐余の池に鳴く鴨をを見るのも、今日を限りとして私は雲の彼方へ去るのだろうか。

 「雲隠る」ということばは貴人の死に対する尊称なので、大津皇子が自分自身に敬語を使うのは変だと疑問がある歌です。仮に姉の大伯皇女が後年、その場所に立って偲んだ歌だとしたら、「この悠久に続く磐余の池で、今も鴨が鳴いているけれど、貴方はこのような鴨の鳴く景色を目に焼き付けたまま死んで(慙死して)しまわれたのでしょうか。(そう思うと私の悲嘆はつきません)」といった解釈になるのでしょうか。いずれにしても死と景色が対峙した哀傷歌です。有間皇子の歌と並んで、秀歌の部類に入るような気がします。その大津皇子の歌は1首のみ孤立してあり、続く挽歌は別な人の歌に移って行きます。でも、後の2つの長歌(420、423番)を見れば、その内容は「こもりくの泊瀬」を舞台として、深く巻13の長歌群と関連するものでした。
 そして、長屋王の賜死(妻、皇子達も含む)では、当事者達の歌は残っていませんが、周辺の人々の歌があるので2首挙げて見ます。

3-441(挽歌)
 題詞「神亀6年(729年)左大臣長屋王に死を賜わった後に倉橋部女王の作られた歌」
 大君の命(みこと)恐み大殯(おおあらき)の
                    時にあらねど雲隠ります
(全訳注の解訳)
 天皇の御命令を尊んで、殯(もがり)の宮にお祭りするはずでない時に、雲にお隠れになった。

3-442(挽歌)
 題詞「膳部王(長屋王の皇子:賜死)を悲傷する歌」
 世間(よのなか)は空しきものとあらむとそ
                    この照る月は満ち欠けしける
                                  (作者不詳)
 前者の歌から分かるように長屋王は、「尋常でない天皇の命令によって雲隠れてしまわれた」のです。そして、続く作者不詳の短歌に留意です。
 実はこの歌の前に神亀5年の大伴旅人の故人(なきひと)を偲ぶ歌が3首並んでいます。大宰府に派遣されて、到着後間もなく亡くなった妻への哀傷歌です。それは、巻5雑歌の冒頭歌の序でも「わざわいが重なり、不吉な知らせがしきりに集まりました。長く心も崩れるような悲しみを懐きひとり腸を断つような涙を流しています…」と綿々と綴られたところの妻の死です。その巻5に載る歌を次に掲げて見ます。

5-793
 世の中は空しきものと知る時し
                    いよよますます悲しかりけり
                                    (大伴旅人)
 この大伴旅人の歌に続いて、憶良の「日本挽歌」という長歌があるのです。旅人と憶良の歌の作歌は、728年のことです。旅人が大宰府に着任して間もなく妻は亡くなります。その妻の挽歌(793番)の前に、旅人は長い序文を設けています。それが上記の冒頭の序です。「わざわいが重なり、不吉な知らせがしきりに集まりました。」とあります。妻の死だけでなく何か不幸が重なったと述べています。不吉な知らせがしきりにあったと振り返っているのです。仮に旅人の歌が、妻の死の1年後、1周忌の歌だとすると、京では2つの重大な不幸事があったのです。聖武天皇の皇太子の死、続く左大臣長屋王の謀叛死が大宰府に届いた時期になるのです。光明皇后を戴いて政権を専横化しつつあった藤原4氏に対し、防波堤の役割を維持していた長屋王です。長屋王は漢詩と和歌にも通じ、風流官人のパトロン的存在だったようです。旅人も憶良も親和していたと思われる皇族だったのです。聖武天皇の後継者である皇子が生後1年弱で他界し、時を経ずに長屋王も諫言によって謀叛死するのです。 万葉集では、旅人や憶良の痛憤が、巻5の旅人の妻の挽歌に事寄せた一連の歌にこもっているような気がするのです。
 
2018-10-13

万葉集長歌の類句―山上憶良の長歌(3)

 万葉集長歌の類句―山上憶良の長歌(3)
 有間皇子の事件は、ある意味で大津皇子の事件と似ています。孝徳天皇の遺児として成長した有間皇子が、斉明天皇や中大兄皇子(後の天智天皇)が紀伊国の温泉に出かけた留守に、都で謀叛を図ったとして蘇我赤兄に逮捕され、同温泉に護送されて中大兄皇子の尋問を受けた後に、京へ戻る途中で斬殺された事件です。政権の支配者だった中大兄皇子(天智天皇)の計略説が囁かれた事件でした。往路の途中で同皇子が詠ったと言う歌が2首、巻2挽歌の最初に載っているのです。磐代(いわしろ)の浜松の枝を結んで旅の安全を(無事な命を持って戻れるように)願かけした歌です。その祈願空しく、皇子は帰途に斬殺されてしまうのです。憶良が生まれる2年前の、658年(斉明天皇4年)の事でした。
 
 この有間皇子の挽歌に関係した憶良の歌が、巻1、巻2、巻9に載っているのです。巻1と巻9は同一歌ですが、歌には川島皇子と山上憶良の2人の作者名が付いています。そのどちらを第一に挙げているかで違うのです。巻1では川島皇子を巻9では憶良を第一に挙げていると言うわけです。歌の作者はともかくとして、巻1の左注によれば「690年(持統天皇4年)に行われた紀伊国行幸時の作成歌」と分かります。これを前提に巻2挽歌の冒頭歌(有間皇子の歌2首)に続く歌について述べて見ます。
 巻2挽歌は、有間皇子の歌を掲げた後に、後世の作歌が2種類続くのです。1つは意吉麿(おきまろ)歌2首とそれに追って和した憶良の歌1首です。2つは人麻呂歌集の歌1首です。その作歌年代が、690年と思われる時点と701年なのです。続日本紀の記録でも、持統天皇が即位した690年と文武天皇時の701年にそれぞれ天皇が紀伊国に行幸していることで裏付けられています。この歌に基づけば、両方とも有間皇子の歌の伝承地(浜松の結び松)に立ち寄ったのです。前者(690年時)の歌に憶良がいて、後者(701年時)の歌に人麻呂(人麻呂歌集)がいるのです。この順序を含めて、同一歌が川島皇子と憶良の歌となっている点、有間皇子の辞世歌がある事自体、一見何の不自然も見えませんが、よく考えると不自然この上ない事ばかりなのです。

 巻1と巻2は、持統天皇や元明天皇が関係した勅撰的な歌集巻だと言われています。両天皇は天智天皇の皇女だった方です。その方々が、父の陰謀によって殺されたと言われる皇子の歌を掲載させているのです。その皇子の辞世歌は、読者の同情を呼び起こす悲傷歌となっています。このような後世に影響を与えそうな歌を載せて、さらに自分たちが旅した時の従駕者の歌(それも偲ぶ歌です)を2回に渡って登載することを許すでしょうか。また、作者とされている川嶋皇子と言えば、懐風藻で「大津皇子の親友だったのに謀叛を密告した」と指摘されている皇子です。同様な事件性をもつ有間皇子を哀悼する歌人には、不向きと言わねばなりません。天皇の行幸時の従駕で、何をわざわざ哀傷して詠うのか疑問です。そこに何で憶良が登場するのかも、唐突で変です。事件は憶良が生まれる以前の出来事だし、身分の低い30代の従駕者が堂々と詠うには適しません。川島皇子付きの舎人であったかも知れないとも言われるのですが、としても巻2の145番歌は憶良の歌です。人目について詠っていることになるのです。さらに人麻呂歌集の歌は、人麻呂の若き日の自作歌や収集歌を盛っていると言われています。巻2挽歌に配置された人麻呂歌集の歌は、701年の行幸時です。人麻呂の作歌年代が明記された歌は、700年の明日香皇女の挽歌を最後に消えているのです。なぜこの場所に人麻呂歌集の歌が登場するのか。と、つっこみどころ満載ではありませんか。
 
(参考資料 :憶良43歳以前の歌2首と掲載された巻1、巻2、巻9)
 注:集中の題詞や左注の言葉を一部私訳しています。
 ①巻1-34
  題詞「紀伊国へ持統天皇が出かけた時、同行した川島皇子が詠った歌。あるいは、山上臣憶良の作だとも言う」
○白波の浜松が枝の手向けぐさ
              幾余までにか年の経ぬらむ
 左注「日本紀にいわく。朱鳥(持統天皇)4年庚寅秋9月、天皇、紀伊国にお出かけになったという」

 ②巻2-145
 (有間皇子の辞世歌2首に続く歌)
  題詞「山上臣憶良の追ひて和ふる歌1首」
○つばさなす あり通ひつつ見らめども
             人こそ知らね松は知るらむ
 左注「これらの歌は挽歌ではないけれども、歌の趣旨を酌んでこの挽歌の部立てに掲載したものである」

(参考:②に続く人麻呂歌集の歌)
 巻2-146
 題詞「大宝元年(701年)、紀伊国に文武天皇(持統上皇等も同道)が出かけた時、(有間皇子の伝説のある)結び松を見て詠った歌。柿本朝臣人麻呂歌集の中にある歌である。」
○後見むと 君が結べる磐白の
             小松が末(うれ)を また見けむかも

③巻9-1716
 題詞「山上の歌1首」
○白波の浜松が枝の手向けぐさ
             幾余までにか年の経ぬらむ
 左注「この歌は川島皇子の作った歌だとも言われている」
 
2018-10-11

万葉集長歌の類句―山上憶良の長歌(2)

万葉集長歌の類句―山上憶良の長歌(2)
 山上憶良の伝記(稲岡耕二著)を参考に続日本紀の記録を抜粋すると次の通りです。

 西暦年(憶良の年齢) ― 関係事項 
①701年(42歳)  ○遣唐使の随員となる(唐への出発は翌年)。
②714年(55歳)  ○叙位正6位下から従5下となる(初めての叙位記録)
③716年(57歳)  ○伯耆守(国司)に任命される。
④721年(62歳)  ○首太子(聖武天皇)の令侍東宮(学習共感)となる。
⑤726年(67歳)  ○筑前守(国司)に任命される。
⑥728年頃  :大伴旅人、大宰府長官として赴任 :子供(家持)同行
⑦730年(71歳)  ○旅人邸で「梅花の宴」
     同年 7月  ●七夕の歌(長歌等)
   :旅人、12月帰京。翌年7月没
⑨732年(72歳)  ○憶良、帰京。
⑩733年(74歳)3月●遣唐使の出発を寿ぐ長歌「好去好来」を贈る。
           6月○辞世歌等(この年に没か)
 注:●印は、巻13の長歌との類句事例として後で扱う長歌。

 701年(大宝元年)は、12月に大伯皇女が41歳で亡くなった年です。その年に憶良は、42歳で遣唐使の随員に選ばれて歴史に登場したのです。続日本紀には、遣唐使9名の記載中9番目に「無位、山上憶良を少録」と記載されています。憶良の年齢は、万葉集にある臨終時の歌(巻5)」の左注「この時年74)」から逆算したものです。驚くべきことに、憶良は大伯皇女より1歳年上、同世代だったのです。ですから大津皇子謀叛事件や大伯斎宮の帰京、草壁皇太子の死、持統天皇の即位等々の出来を、憶良は壮年期に真近に見知った出来事だったのです。
 万葉集の憶良は、奈良時代(それも聖武天皇の天平時代の初期)に活躍した歌人です。持統天皇代に活躍した柿本人麻呂と較べれば、ずっと後代の歌人なのです。実際に彼が作った長歌(11首)や短歌70余首は、奈良時代以降に詠われたのでした。それ以前の歌は、唐から帰国する際の歌(1首)と有間皇子の悲傷歌(2首)しかないのです。
 ところが、万葉集編纂者は憶良の歌集「類聚歌林」を特別扱いしています。それは巻1と巻2を見れば分かる事です。巻1の古歌6首、巻2の冒頭歌「磐姫皇后の歌」に対し、「類聚歌林を検(けみ)すると…」(左注)という注書きを載せているからです。その古歌は、憶良出生前のものもあるので、「類聚歌林」が憶良個人の歌集でないことが知れます。それでも古歌の作歌事情や年代の根拠を示す貴重な根拠歌集として引用されているのです。一方、作者不詳巻を中心に「人麻呂歌集」も多岐に登場しています。この歌集だって人麻呂本人歌だけとは見られていません。にもかかわらず、古歌の作歌事情や年代を示す注釈としての事例は皆無なのです。単に登載された歌が「人麻呂歌集」の歌であることを示すに過ぎないのです。「類聚歌林」だけが、巻1、2の天武天皇以前の時代の歌の根拠にされているのです。集中にある他の個人歌集「高橋虫麻呂歌集」「田辺福麻呂歌集」「金村歌集」にも「類聚歌林」のような注釈の使用は見られないのです。
 奈良時代以前に作歌された憶良の歌3首の内、遣唐使以前(702年以前)の歌は、有間皇子を悼(いた)んだ歌2首のみです。それが奇妙なことに巻1、巻2、巻9と3巻に載っているのです。類歌とは関係ありませんが、興味深いものがあるのでこの点を続けてみます。
2018-10-10

万葉集長歌の類句ー山上憶良の長歌(1)

 山上憶良の長歌(1)
 万葉集で「山柿の門」と言えば、山部赤人と柿本人麻呂を指すと言われています。つまり万葉歌人の双璧と見なされているのです。元々は、集中にある大伴家持が大伴池主に当てた書中の一文言に依っています。それを古今集仮名序及び真名序が「赤人と人麻呂」を指定し、万葉集の双璧と讃えてから、現在まで万葉歌人の第一人者を指すようになっているのです。明治時代になって、「山部赤人は山上憶良」だと指摘する研究者(佐々木信綱)が現れます。短歌界の写実主義にとっては、赤人がかなっていると見え、今もって山上憶良説は分が悪いようです。
 でも、古今集と言う歌集は最初の勅撰和歌集でした。天皇の勅命をもって編まれた歌集なのです。朝廷の歌として漢詩同様に君臣唱和の理念に立っています。さらに和歌を漢詩に換えて朝廷の文化にしていく抱負があったと思います。そのような編纂者の意図からすれば、万葉集を「万葉(よろづの言の葉)」と解して、その中から山部赤人を第一人者に選ぶのは、ちっとも不思議ではありません。彼の歌のほとんどは行幸の従駕の歌だからです。自然讃歌とも取れますが、当時流の言葉でいえば「国褒め歌」とも言うべき行幸地の「土地誉め歌」なのです。同系列の歌人笹金村が宴会歌ならば、赤人は儀式歌とも言うべき特徴を示しているのです。
 しかし、万葉集編纂に深く関わった大伴家持が書中の言葉として考えれば、山上憶良説もちっとも不思議ではないのです。不思議でないどころか、家持にとっては集中第一の尊敬する歌人だったに違いないのです。聖武天皇が皇太子だった時に、令従東宮(今ならば家庭教師)の1人に選ばれたほど博識で漢詩の素養を有していた歌人です。家持の父「歌人大伴旅人」の第一の理解者でもあった人でした。君臣唱和よりも人生を深く詠う歌人でした。また、苦労の多い国司としての先達でもあったのです。このような流れから大伴家持の「山柿の門」を想像すれば、佐々木信綱の指摘は十分理にかなうものなのです。それ以上に同氏の指摘は、新たな万葉集理解と新たな視点からの歌世界が広がって行く提起でもあったと思えるのです。残念なことに、そのような潮流はちっともできなかったのですが。
 つい「山柿の門」にこだわって山上憶良を強調してしまいました。それは憶良の歌のすばらしさを言うためではありません。万葉集編纂者が憶良を重視していることに気付いたからです。赤人の長歌数は13首、憶良の長歌は11首で、歌数では赤人が多いのです。でも、集中の各巻における「歌・題詞・左注」の出現率では、憶良は20巻中11巻に登場します。それは、人麻呂の作歌と人麻呂歌集を加えた同人の出現率に匹敵するものです。対する赤人は、たった3巻にしか登場しないのでした。歌集という点からも、人麻呂と憶良は所持していたことが明示されているのに対し、赤人の歌集はないのです。赤人の写実歌は、一貫した評価ではなくて、明治以降に再評価された感もあります。「山柿の門」には、こんな問題があるのでした。

 ところで私が述べようとしているのは、長歌に関する巻13との類句です。憶良の長歌も赤人長歌も、勿論検証していきます。そのためには各歌人が、集中で長歌を何首作成しているか、作歌年代は、どんな歌だったのか…等々に言及していく予定です。そうではあるのですが、憶良を調べたらついのめり込んでしまいました。迂回した論に成って行きますが、もう少しこの歌人について述べて見たいと思います。

プロフィール

読み人知らず

Author:読み人知らず
 東北の田舎に暮らす退職者です。こんな年齢で万葉集を読み始め、読むほどに好きになりました。たくさんの人が万葉集について語っています。
 私も、巻13にある「読み人知らずの歌」を語りたくなりました。誰にも読まれずしんしんと埋もれていくとしても… 

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ