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2019-05-17

柿本人麻呂(20)

   柿本人麻呂(20)
 (2)枕詞「あしひきの」について⑪
 巻13の挽歌で使用された「あしひきの」は、「山行き野行き」、「山道」、「野き山行き」に掛かる枕詞でした。万葉集に同様な類句を探せば、巻3(大伴家持長歌)、巻6(山部赤人長歌の反歌)、巻10(読み人知らず)、巻15(中臣宅守との歌)、巻17(大伴池主長歌)、巻20(舎人親王の歌)等に見出すことが出来ます。
 家持の長歌は天平11年の作で、彼が最初に詠った万葉集での歌です。家持が思いを寄せた女性が亡くなってしまったのです。若き日の家持の挽歌であり悲傷歌でした。山部赤人の歌は、聖武天皇代(神亀2年)吉野行幸の従駕時の賀歌です。巻10の読み人知らずの歌は、「冬ごもり春さり来る、鶯が鳴く」という春の讃歌です。そのイメージは、巻13雑歌の冒頭歌(3221)に似ています。巻15の歌は、狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)との密愛を罰されて流罪となった中臣宅守と娘子の相聞歌63首中の冒頭歌です。勿論、相聞歌の習いで女性が先です。その女性(娘子)の離別の悲傷歌です。巻17の歌は、家持と舟遊びを楽しんだ大伴池主の宴歌です。巻20の歌は、昔、舎人親王が詠ったという行幸時の歌です。このように、巻13挽歌に登場した「あしひきの」に掛かる章句は、万葉集の歌に広く散見するのです。その歌内容は挽歌だけでなく、従駕時の賀歌、春の讃歌、相聞歌、宴歌等に多様に使用されているのでた。
 一方、柿本人麻呂の歌との関係で言えば、巻13挽歌の長歌に登場する「あしひきの」に掛かる章句と同じものは、人麻呂歌集の歌にたった1首しか発見できませんでした。巻13相聞歌の使用例では、皆無だったのです。その1首は、次の歌です。

○10-2315(冬雑歌:読み人知らず)
  あしひきの山路も知らず白樫(しらかし)の
                       枝もとををに雪の降れれば
 :左注「右は柿本朝臣人麻呂歌集に出でたり。或本にいわく、三方沙祢の作なりといへり」

(中西進「全注訳」)
 あしひきの山道もわからない。白樫の枝もたわむばかりに雪がふっているので。

 「あしひきの山路」という章句が、この人麻呂歌集の歌だという歌に唯一使用されていたのです。それもご丁寧に「三方沙祢の作と言う本もある」などと謎めく注釈が入っているのです。歌は冬の場面を詠った雑歌です。中西進の全注訳のとおり、当たり前の叙景歌と思われます。
 しかし、巻13挽歌の「あしひきの山路」を、「愛のために山道を通った若者」が、「海道の神の渡りを越えた」ばかりに悲劇的な運命を得た。といった悲劇の恋愛譚を念頭に置く立場から見れば、「白樫の木」も見過ごすわけには行きません。すでに述べていることですが、「白樫」「厳樫」には因縁があったからです。

 (記歌謡92番)
 御諸(みもろ)の厳白樫(いつかし)が下(もと)
白樫(しらかし)がもと い立たしけむ白樫原童女(かしはらをとめ)
(巻1-9:額田王の歌)
 (12字が訓読未詳)
吾が背子がい立たしけむ厳樫(いつかし)が下(もと)

 記歌謡の逸話は、雄略天皇の求愛を信じて操を守り年老いてしまった神女の話でした。嗤いの籠った話ではあるけれど、神に操を奉げ守った処女の悲劇譚でもあったのです。その「厳樫(いつかし)が本」は、垂仁天皇紀に遡れば、伊勢神宮の起源の場である、元伊勢(磯城の神籬(ひもろぎ)を立てた場所)を指していたのでした。そのような神聖な響きをもつ「白樫(いつかし)」であるのです。
 しかし、単純な叙景歌と見て、古代の山ならばどこにでもあったかも知れない白樫の木と雪景色を詠っているのかも知れません。ただ、問題は柿本人麻呂にあるのではなく、万葉集編纂者の意図にあるのです。この作者不明歌を「人麻呂歌集に出ていた」と注釈し、さらに「或本では三方沙弥の歌とも言っている」と述べる編纂者は、様々な古事や歌を十分に承知した知識人であることが知れるのです。ちなみに三方沙弥は山田史三方とも言い、懐風藻に3篇の漢詩を載せています。元明天皇下従5位となっており、文章博士や聖武天皇が東宮の時師ともなった人です。そのような人の歌ならば、なおさら意味ありの歌だと分かるのです。
「山にある白樫の下(もと)。今は、古樹の枝先一杯に雪が降り積もって、(白樫が下に辿(たど)り着く)山道さえも埋もれて分からないことだろうなあ。」と解すれば、私には「白樫にまとわる伊勢斎宮の悲話」を念頭にした叙景歌に思えるのです。

 話が横道に入ってしまいましたが、本題の枕詞「あしひきの」に戻ります。万葉集でダントツに使用された枕詞「あしひきの」が、人麻呂自作と言われる歌には使用されていないのです。巻13に使用された5首のケースを、枕詞に続く章句を持って万葉集の類句を調べて見ると、前述のようにたくさんの類句が発見できて、多岐に影響を与えていたように思われるのです。それに対して、人麻呂の歌では唯一「あしひきの山道」だけです。それも人麻呂歌集の歌にあるもので、自作歌とははっきりしないのです。
 人麻呂の挽歌は、万葉集第一であることを誰もが認めているところです。その挽歌を見渡しても、長歌にも短歌にも枕詞「あしひきの」が登場しないばかりか、巻13挽歌に使用された枕詞「あしひきの」の類句が1首ありながら、内容は挽歌ではなかったのです。
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2019-05-12

柿本人麻呂(19)

   柿本人麻呂(19)
 (2)枕詞「あしひきの」について⑩
 巻13で使用された枕詞「あしひきの」の他の3首は、挽歌に使用されたものです。私の「大伯皇女と大津皇子の愛物語」観から言えば、弟が謀叛死した後の姉の歌だという事になります。巻13の挽歌の解釈をまだ終えていないので、大伯皇女の歌と言えるか確信できません。彼女は弟の死後16年を生きています。この間、彼女は尼となって某寺に住んだと言われています。元斎宮が尼に成ったか疑問がありますが、或いはそうだったかも知れません。でも、刑死した弟の一方の共犯者だったとしたら、最初は幽閉状態に置かれたのです。この微妙な幽閉蟄居を執行したのは、朝廷の信頼を得た武家の氏族が適任であったろうと思うのです。私は、石川郎女を娶って坂上郎女をもうけた大伴安麻呂を想像します。平安時代末期、平家や源氏の武士の歌が勅撰和歌に採用されることがいかに稀有だったかを考えると、万葉集に登場する大伴氏の歌人達の多さは目を見張るものがあります。「石川郎女―坂上郎女」が、大伴氏に与えた和歌の影響は、とても大きいと思います。その和歌の真の伝授者は、蟄居状態で庇護された大伯皇だったと想像するのは、妄想と嗤われるでしょうか。
 しかし、巻13挽歌の歌群が、その後を生きた大伯皇女の挽歌だったかは大いに疑問です。自信がありません。そこには、様々な要素が歌に入っているからです。ここでは伯皇女の歌と決めつけず、枕詞「あしひきの」が掛かった山に続く章句に注目して、前ブログ同様に調べて見ます。

 ①13-3335
  玉鉾(ほこ)の 道行き人は
  あしひきの 山行き野行き
  直(ただ)海に 川往(ゆ)き渡り
  鯨魚(いさな)とり 海道に出でて
  (以下略)
  とゐ波の 塞(ささ)ふる道を
  誰が心 いたはしとかも
  直(ただ)渡りけむ 直(ただ)渡りけむ

 ②13-3338(反歌) 注:3336も長歌
  あしひきの山道(やまじ)を行かむ 風吹けば
              波の塞(ささ)ふる海道は行かじ

 ③13-3339
  玉鉾の 道に出(い)で立ち
  あしひきの 野行き山行き
  みなぎらふ 川往き渉(わた)り
  鯨魚(いさな)とり 海道に出でて
  (略)
  沖つ藻を 枕に置きて
  うらも無く 臥(こや)せる君は
  母父の 愛子(まなこ)にもあらむ
  (略)
  家問へど 家路も言わず
  名を問へど 名だに告(の)らず
  (略)
  とゐ波の 恐(かしこ)き海を
  直(ただ)渡りけむ

 ①の長歌の大意を理解しないと、「あしひきの 山行き野行き」のニュアンスが掴めません。私の独断的な私訳を挙げると、「玉鉾の道を行く人は、山を越え野を行き、川を渡り、鯨をとる大海原に出て、畏れ多いことだが、神の渡りには吹く風はおどろおどろに吹き、立つ波も恐ろしく、そんな誰も行きたくない怖い道を突き進んでいく。一体誰の心を愛(いと)しいと思って、真っ直ぐに渡って行ったのだろうか。真っ直ぐに渡って行ったのだろうか。」という愛に殉死した者を想像させる挽歌なのです。
 そして、②の反歌は、「あしひきの山道をこそ行こう。風が吹いて波が立ち塞ぐ海道は行くまい」と詠っているのです。そのような「愛のために山道を通った若者」が、「海道の神の渡りを越えた」ばかりに悲劇的な運命を得た。そんな悲歌を理解する必要があるのです。③は、①と②の顛末(てんまつ)と想像すれば良いのです。悲劇的な運命を得た若者が、海辺に行路事故死者として横たわっているのです。
 しかし、③ではもう①の愛の殉死者ではなく、旅の途中で倒れた行路病死者の悲劇に取って変わっているのです。その反歌4首の2首を続けて載せて見ます。

 ○13-3341(反歌)
  家人(いへびと)の待つらむものを つれもなき
                           荒磯をまきて臥(こや)せる君かも
 ○13-3342(反歌)
  沖つ藻に臥(こや)せる君を今日今日と
                          来むと待つらむ妻し悲しも


2019-05-09

柿本人麻呂(18)

   柿本人麻呂(18)
 (2)枕詞「あしひきの」について⑨
 「あしひきの山の木末(こぬれ)」と言うという章句は、巻13以外に4首に使用されています。いずれも大伴家持の長歌です。さわりを抜粋すると次のような歌です。
①17-3957(死んだ弟を哀傷する歌。天平18年9月)
 (前略)
 佐保の家の 里を行き過ぎ
 あしひきの 山の木末
 白雲に 立ちたなびくと 吾に告げつる

②18-4111(橘の歌。天平感實元年5月)
 (前略)
 秋づけば 時雨の雨降り
 あしひきの 山の木末
 紅(くれない)に にほひ散れども
  (後略)
 
③18-4136(国の諸郡司に給う宴の歌。天平勝宝2年正月)
 あしひきの山の木末の寄生(ほよ)取りて
                 かざしつらくは千年寿(ほ)くとぞ

④19-4160(世間(よのなか)の無常を悲しむ歌。同年3月)
  (前略)
  照る月も 満ち欠けしけり  
  あしひきの 山の木末も
  春されば 花さきにほひ
  秋づけば 露霜負ひて
  (後略)

 家持の4首は、章句「あしひきの山の木末」こそ同じ(巻13の女性歌と)ですが、歌はもうかけ離れた内容です。男女の離別と相聞というものが巻13の女性の歌世界ならば、家持の世界は、挽歌であったり寿ぎ歌であったり宴歌であったりします。多様な場面に章句が一般化されて使用されているのです。多様な使用は、枕詞「あしひきの」について家持が創造したかに思えますが、そうではないと思います。年代が明らかに後代だと分かるからです。しかし、それだけでなく巻13の女性歌や大津皇子の歌、そして「しらげ歌」に現われる章句を見知っていたと思えるからです。
 巻13の女性歌の世界である「山の木末(こぬれ)」・「はふ蔦(つた)」「(山菅の根の)ねもころ」を持った相聞歌を探せば、家持の歌よりも影響を受けていると思えるものが、次のように発見できるのです。
(相聞歌)
 ① 4-580(相聞歌:余明軍)
  あしひきの山に生ひたる菅の根の 
  ねもころ見まくほしき君かも
 ②10-2296(秋相聞:黄葉に寄するー読み人知らず)
  あしひきの山さなかづら見つまでは
               妹にあはずやわが恋ひをらむ
 ③11-2477(寄物陳思-人麻呂歌集の歌)
  あしひきの名に負ふ山菅おしふせて
               君し結はばあはざらめやも
 ④12-3051(寄物陳思-読み人知らず)
  あしひきの山菅の根もねもころに
               吾はぞ恋ふる君は光儀(すがた)に
 ⑤12-3053(寄物陳思-読み人知らず)
  あしひきの山菅の根もねもころに
               やまず思はば妹にあはむかも
 ⑥ 2-135(石見国相聞歌―柿本人麻呂)
 (前略)
  さ宿(ね)し夜は いくだもあらず
  はふ蔦(つた)の 別れし来れば
  肝向かふ 心を痛み
 (後略)
 ⑦ 3-267(雑歌―志貴皇子の歌)
  むささびは木末(こぬれ)求むとあしひきの
               山の猟夫(さつを)にあひにけるかも

 以上のように、巻13の女性長歌の章句から影響を受けたのではないかと思える短歌が、各巻の相聞歌に類句を持って散見するのです。その中には、人麻呂歌集の歌や人麻呂の有名な「石見国相聞歌」も入っているのです。ならば、人麻呂の長歌が巻13の女性歌に影響を与えたのではないか。とも考えられるわけですが、今まで述べて来た枕詞「あしひきの」の経過で言えば、ほとんど関係がないのです。むしろこの流れで見渡せば、人麻呂の使った章句の方が巻13の女性歌の周辺歌的な存在になっているのです。
 ⑦の志貴皇子の歌は、相聞歌ではありません。ただ、「あしひきの」と「木末(こぬれ)」が順序を逆にして使用されています。この歌には、何やら不吉な象徴が隠されているような印象があります。その印象がこの歌を際立たせているのだと思います。志貴皇子は勿論、万葉集では優秀な歌人として名高い人なのです。

2019-05-08

柿本人麻呂(17)

   柿本人麻呂(17)
 (2)枕詞「あしひきの」について⑧
 巻13相聞歌で使用された枕詞「あしひきの」のもう1首について、長歌の全文と反歌を挙げて解釈して見ます。

 ②「あしひきの山の木末(こぬれ)にはふ蔦(つた)の」
 (13-3291)
 み吉野の 真木立つ山に
 青く生ふる 山菅(やますげ)の根の
 ねもころに 我が思ふ君は
 大君の 任(まけ)のまにまに  (或本「大君の命畏み」)   
 鄙(ひな)離(さか)る 国治めにと (或本「天離るひな治めにと」)
 群鳥(むれどり)の 朝立ち去(い)なば
 後れたる 吾か恋ひむな
 旅なれば 君か思(しの)はむ
 いはむ術(すべ) せむ術知らず
 あしひきの山の木末(こぬれ)にはふ蔦(つた)の (或書にある)
 ゆきし別(わかれ)のあまた  (或本に「ゆきし」なし)
 惜しきものかも
   ○注:赤字部分は、「或る本、或る書による異伝」がある部分。本文は、「新訓万葉集」に依る。

 (13-3292(反歌))
 うつせみの命を長くありこそと
              留(とま)れる吾は 齋(いは)ひて待たむ

 伊藤博の「釈注」に依れば、別れを惜しむ妻の歌です。夫が官命を帯びて地方に赴任するらしく、「群れ鳥」は官人が集団で出発することが想像されます。長歌では離別の悲しみが詠われ、反歌では「潔斎による旅の安全祈願」が詠われています。公的な官人壮行の場で詠われたものだが、男女の別れの歌なので相聞の部に入ったものであろうと解釈されています。
 しかし、この歌には「或る本」と「或る書」の異伝が4か所も注釈されており、巻13長歌では(唯一と思えます)異常なことです。それに官人壮行の場で妻が詠うと言うのも、一見ありそうで実際は考えられません。そもそも上記の歌内用は、男女の1対1の関係で詠われたものです。巻13の長歌群の配列から見ても、それまでの歌は全て内面的な心情で詠われていたのです。伊藤博は、紆余曲折(うよきょくせつ)して最終的に「別れの歌」として定着したものだろうと推測しています。すると、最初は公的な場面で詠われた長歌ではなかったとも考えられるのです。例えば、「鄙(ひな)離(さか)る 国治め」と「天離(あまさか)る 鄙(ひな)治め」では、枕詞「天離る→鄙」です。この長歌の「鄙(ひな)離(さか)る 国治め」では解釈困難で、間違いではないかと思えるぐらいです。にもかかわらず、「新訓万葉集」以下ほとんどの万葉集は、上記長歌のとおりに採用しているのです。女性作者は鄙に居て、別れる夫は国治めの仕事に(京へ)行くとでも解釈すべきなのでしょうか。でも、こんな立場での解釈はどこにも見当たりません。それにこの長歌は、万葉集に金村歌集の歌(9-1785)の類歌があったりするのです。この比較では、金村歌集の歌が古いと言われているようですが…

 「み吉野の、真木立つ山に、青く生ふる、山菅(やますげ)の根の」という冒頭の4連句は、「ねもころ」に掛かる序詞です。同じ巻13の「霹靂(かむとけ)の、日かおる天の、九月の、…瑞枝さす」(3223番)という長い序詞が「秋の紅葉」に掛かっていました。あの雑歌の作者も女性でした。格助詞「の」を連発するこの長歌の作者も女性です。 この長歌で登場する枕詞「あしひきの」は、「山の木末(こぬれ)」に掛かっていますが、「はふ蔦(つた)」にも繫がっています。また、冒頭4連句が掛かる「(山菅の根の)ねもころ」も歌の主要な言葉と考えます。この3つの言葉に注目して、万葉集中の類句「あしひきの」の歌を探して行きます。

2019-05-07

柿本人麻呂(16)

   柿本人麻呂(16)
 (2)枕詞「あしひきの」について⑦
 巻13では、枕詞「あしひきの」が相聞歌(2首)と挽歌(3首)に合計5首登場します。最初に、相聞歌2首を見てみます。

 ① 「あしひきの山より出づる月待つと 人には言ひて君待つ吾を」  (13-3276)

  上記は、長歌の最後の部分です。この長歌は最初は男性の歌ですが、途中から女性の歌に変わる不思議な構成になっています。反歌は女性の歌になっています。この歌の場面を要約すると、高貴な女性(私の独断解釈です)がわざわざ道辺に立って人待ちしているのです。二人の魂が合うならば、「きっと会えるはずだ」と思い詰めて。道来る人が不審に思って「どうしたのですか」と尋ねるので、「山の峰から出る月を見ようと待っているところです」などと誤魔化しながら、思い人に会いたい一心で待ち続けているのです。そして、反歌では「いくら待っても貴方は来なかった」という失意と焦燥で締めくくられるのです。 この後に続く歌群「3280~3283」こそが、百人一首の「人麻呂歌」と相通じる「歌の心」を示した歌でした(柿本人麻呂(6)のブログ参照)。つまり、「(来ない恋人を思って)長い夜を独り寝する女性の嘆きの歌」が続いているのです。このような「あしひきの」という枕詞と「山の月」、「密会」、「逢えない」等を含んだ相聞歌の類歌が、他の巻に次のようにあるのです。

 ○12-3002(寄物陳思)
  あしひきの山より出づる月待つと 人には言ひて妹待つわれを
 ○12-3008(寄物陳思)
  あしひきの山を小高み夕月を いつかと君を待つが苦しさ
 ○ 4-670(相聞歌):湯原王作
  月読みの光に来ませあしひきの 山き隔(へ)なりて遠からなくに
 ○11-2679(正述心緒)
  窓越しに月押し照りてあしひきの 嵐吹く夜は君をしぞ思ふ
 ○17-3983(ほととぎすの歌):大伴家持作
  あしひきの山も近きをほととぎす 月立つまでに何か来鳴かぬ
 ○18-4076(古人のいへるに応える):大伴家持作
  あしひきの山はなくもが月見れば 同じき里を心隔てつ

 巻12の3002番歌などは、①と男女を入れ替えただけの同一歌です。どちらかが、パクッた(模倣)歌なのです。他の類歌を並べて見ると、どう見ても巻13の女性の歌が、影響を与えていると思えるのです。大伴家持の歌は、相聞歌の区分下にあるものではないけれど、巻13の長歌を知っている上での使用がうかがえるのです。


プロフィール

読み人知らず

Author:読み人知らず
 東北の田舎に暮らす退職者です。こんな年齢で万葉集を読み始め、読むほどに好きになりました。たくさんの人が万葉集について語っています。
 私も、巻13にある「読み人知らずの歌」を語りたくなりました。誰にも読まれずしんしんと埋もれていくとしても… 

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