2018-03-30

3月の閑話

   ふうちゃんは吐く

ふうちゃんは
突然呪文を吐く
げっげっげっげっと
ところかまわずに唱え出す
猫の眼が飛んで
あぶない世界に入ってしまう

あっ あっ と
僕は条件反射で立ち
備えの広告紙を取りに行く
やるべきことはただ一つ
頭は全て分かっているのに
心は焦り 
動作が追いつかない
紙一枚取るのに
おたおたと何をやっているのやら
僕がこんなに馬鹿だとは
ああ いらいらする
やっと抜いた広告紙を開いて
ふうちゃんの前に
えいっとばかりに差し出せば
げっと
ふうちゃんは嘔吐する

何でそんなに
見事に逸(そ)らすのだ
どろどろな茶色の液体が
開いた広告紙をはずして
元気に飛んで
床を一杯に汚す
あーあ
嘆く僕をよそに
ふうちゃんは尻尾を振って
さっさと逃げて行く

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2018-03-24

万葉集の枕詞(20)

 (2)万葉集巻13の枕詞 ⑳
 
   枕詞1「神風の」(4)
 日本書紀には、伊勢神宮に関連する興味深い記載が9個所見られます。それを先に挙げて見ます。
●天孫降臨
  書紀の天孫降臨は、本文の他に「一書にいう」が8種もあります。伊勢神宮に関係するのは本文と一書の第2です。
(本文)
  天孫降臨時に猿田彦大神という謎の神が現われて、皇孫の行き先を教えます。「皇孫は筑紫の日向の高千穂…我は伊勢の五 十鈴川のほとりへ行く」と、なぜか猿田彦大神と天孫の付き神であるアマノウズメノミコトが行ったと述べられています。
(一書の第2)
  降臨した神は、古事記と違うアマノオシホミミノミコトになっています。でもポイントは、「吾を見るごとくすべし。ともに床を高くし殿 を共にしていはひ鏡とすべし」という神勅です。天照大神の宝物(後の神器)が、降臨神と一緒の場所に置くように勅されている点 です。古事記では曖昧で触れられていませんでした。

●人代の天皇の記述(8個所)
 ①崇神天皇(10代) 6年
   豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に天照大神を付けて、倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祀る。
 ②垂仁天皇(11代)25年
   倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に付けて各地を渡り歩き、伊勢の国に至る。
  「この神風の伊勢の国は常世の波の重波(しきなみ)よする国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。この国に居らむとお もふ」と、天照大神が倭姫命に教えたので、斎宮が五十鈴川の川上に立った。これを磯宮といふ。

 ③景行天皇(12代)20年   ○五百野皇女斎宮となる。
 ④雄略天皇(22代) 3年   ○稚足姫斎宮、密通の疑いで自殺
 ⑤継体天皇(27代) 元年   ○荳角皇女斎宮となる。
 ⑥欽明天皇(30代) 2年   ○磐隈皇女、茨城皇子と密通し解任
 ⑦敏達天皇(31代) 7年   ○莬道皇女、池辺皇子と密通し解任
 ⑧用明天皇(32代)即位前  ○酢香手姫皇女任命。推古天皇代に退任。
 ⑨天武天皇(40代) 2年   ○大伯皇女を伊勢斎宮に卜定する。

 日本書紀には伊勢神宮建立の経緯が述べられています。天孫降臨時の「一書の第2」によれば、神は天皇と一緒(朝廷)に坐(い)たのです。崇神天皇の代になって、神は皇女に付いて朝廷から離れます。さらに垂仁天皇時に、倭姫命が各地を渡り歩いた後に、天照大神の教えで現在の伊勢神宮に鎮座したと言うわけです。一方書記も古事記と同様、天孫降臨時、猿田彦大神という謎の神登場させて、伊勢神宮の鎮座を未来予知しています。

 ところで、「この神風の伊勢の国は常世の波の重波(しきなみ)よする国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。」と教える天照大神のお言葉は、よく読めばおかしな内容です。「神風の伊勢の国」は、天照大神自身が発する言葉としてふさわしくありません。神が鎮座することによって生じる現象のはずだからです。
それに神の教えの本意は、「(大和朝廷から見ての)隣国である伊勢の国は、うまし国である。」なぜならば「絶えず寄せる海の波の幸がもたらす国である。」とも解釈できる2つの構文で成り立っています。もちろん「可怜(うま)し」は、今の「うまい」を指している訳ではありません。
 巻13の伊勢斎宮讃歌と解釈した長歌にも「日の皇子のきこし食(を)す御食(みけ)つ国。神風の伊勢の国」という文言がありました。この構文と神の教えは類似します。大和朝廷からみて、伊勢の国は東国の出先であり要所です。同時に海に面した隣国です。その伊勢の国に神が下り立つ(伊勢斎宮)ことによって、神風の吹く国となり、海からの幸が寄せる国が保証されるはずなのです。このような服属儀礼を象徴する「食物奉納」が隠れていると思えるのです。そのような天神地祇の祭祀は、天武天皇代からの意義づけだったと考えるのです。それに「可怜」という表記も興味深い部分です。万葉集では「忄(りっしんべん)」のついた「可」をもって標記されていますが、舒明天皇の歌を除けば「あはれ」を意味する言葉であり、謎です。なぜなのかは、私のずっと向こうに置く問題目標です。本居宣長の「もののあはれ」に関わりそうな言葉に思えるからです。

 話が妄想のように広がりますが、問題は「神風の伊勢」と「伊勢神宮」です。書紀の記述に見られる唯一の「神風の伊勢」は、伊勢神宮の起源伝承を教えるものではないこと、巻13の長歌の文言と構文が類似することを強調したいのです。既成事実の上に立った述べ方は、古事記の記載と同様です。書紀もまた「伊勢神宮」の起源を語らず、つじつまを合わせた経緯を下記のごとく記述しているだけなのです。

(1)天孫降臨時の記述
   天照大神は朝廷に祀られた。(伊勢の国の鎮座が予知されていた)
(2)崇神天皇時
   天照大神が朝廷外に出る。:倭の笠縫邑(元伊勢)
(3)垂仁天皇時
   天照大神が伊勢の国に鎮座する。
(4)それ以後の斎宮の経緯
   斎宮7名の記述(4名は任命、他3名は密通の事件記述)

2018-03-23

万葉集の枕詞(19)

 (2)万葉集巻13の枕詞 ⑲
 
   枕詞1「神風の」(3)
  「神風の→伊勢」は、どのように見ても伊勢神宮と密接に結び付く言葉です。天神は伊勢神宮におられたのです。日本の唯一神ではないけれど、頂点に立つ神です。その神の坐(ゐ)ます伊勢に吹く風だから、「神風の伊勢」という特別な修飾が許されたのだと思います。このような特別な神社となったのは、天武天皇が大伯皇女を伊勢斎宮として派遣し、天神地祇制度を確立していった重要政策と深く関わっている。と言うのが私の推論です。もちろん、後世に伝えて合理化したのは、古事記と日本書紀です。 
 ところで、伊勢神宮は皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の2神が主な神様です。天照大神(皇大神宮1柱)を頂点とした1宮があるべき姿だと思うのですが、実体は2宮の神様を主体に伊勢神宮が成り立っています。その伊勢神宮の起源伝承は、記紀で記述が違います。それぞれの記述を挙げて見ます。

 (古事記)
●(神産み)
 高天原の神の歴史は、別天神と神世七代をへて、ようやくイザナギとイザナミの2神が、日本の国を産み、次にさまざまな神々を産みます。最後に生まれた神の子は、豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)です。
イザナミは、火の神を生んだことが原因で死んでしまいます。死んだイザナミを追ってイザナギの黄泉の国訪問が行われます。しかし、この後2神は生死によって対立する神となってしまいます。黄泉の国から逃れ帰って、禊の後にイザナギが生んだ神々の内の3貴子が、天照大神、月読命、建速須佐之男命です。
●天孫降臨
 天照大神が、葦原中国(地上)に降臨する孫神(ニニギノミコト)に三種の神宝(勾玉、鏡、草薙の剣)を与え、種々の神々を突き従えさせて送り出した際の神命と続く叙述を挙げて見ます。
「鏡は専ら我が御魂(みたま)として我が前を拝(いつ)くがごといつき奉(まつ)れ。次に思金神は前の事を取り持ちて、政(まつりごと)せよ」とのりたまひき。この二柱の神は、いすずの宮に拝(いつ)き祭る。次に登由宇気神(とようけのかみ)、これは外宮の渡相(わたらひ)に坐す神なり。

●崇神天皇記
 「トヨスキイリヒメノミコトは、伊勢の大神の宮に拝き祭りき」
●垂仁天皇記
 「ヤマトヒメノミコトは、伊勢の大神の宮に拝き祭りき」
●景行天皇記
 「伊勢の大御神の宮に参入(まいい)りて、神の朝廷(みかど)を拝(おろが)みて、すなはち叔母ヤマトヒメノミコトにまをしたまひけらく」

 以上の5個所が、古事記に記載のある伊勢神宮との関連個所です。神産みの中に、伊勢神宮の2柱の神の名が記されています。50神以上の名前が出て来るので、何が何やら分からなくなってしまいますが、神の序列で言えば、豊受大神宮(外宮)が天照大神(内宮)よりもお姉さん神(古い神)なのです。この点は注目すべきことだと思います。
 天孫降臨場面の記述も不思議です。なぜ伊勢神宮の神は天照大神1柱ではないのでしょう。天孫降臨の場で、天照大神は「鏡を私の魂として額づいて祀れ。思金神は政(まつりごと)せよ」と神勅しています。それが次に、なぜ二柱の神に分かれてしまうのでしょう。さらに分かり難いのは、思金神を2柱目の神としているかのような記述で、突然に「登由宇気神(とようけのかみ)、これは外宮の渡相(わたらひ)に坐す神なり。」ともう既成事実であるかのような説明が続くのです。「外宮」などと言うのは、後世の俗称だろうと私は思っていました。それが起源の記述で決定していたのです。さらに、伊勢神宮(天照大神)が今ある「いすずの宮」で、登由宇気神が今ある「度相の外宮だ」と言うに等しい記述です。天孫降臨は九州になされたはずです。この場面では、未来予知によって決定されていたとでも言うのでしょうか。とても伊勢神宮の起源伝承をなしていないのです。
 神話を経て、神武天皇代の歌謡に登場した「神風の伊勢」も、伝承の逸話とは関係しない場所でした。理屈で言えば、東征の経路にない未知の国でした。
 その後の歴代天皇の記述では、天孫降臨時の記述「いすずの宮」や「外宮の渡相(わたらひ)」は1回も登場しません。伊勢斎宮に触れる記載が、上記の3人の天皇代にあるばかりなのです。倭建命の征討譚で登場する「ヤマトヒメノミコト」にしても、垂仁天皇から景行天皇代の在任期間を計算すれば、数値が合わず、大変なおばあさんが登場してしまうのです。

 持統天皇一系の皇祖を正当付ける天孫降臨の神話(王権神授説)が、古事記には強く流れているはずです。その皇祖神が「天照大神」です。その場面にはなぜか2柱の神が登場し、現代に続く伊勢神宮の2つの宮なのです。でも、その記述は起源伝承を伝えるものではないのです。にもかかわらず「天照大神」と「登由宇気神(とようけのかみ)」が突然、既成の事実となっているのです。

 日本書紀ではどのように描かれているでしょうか。この点を次に調べて行きます。 

2018-03-21

万葉集の枕詞(18)

 (2)万葉集巻13の枕詞 ⑱
 
  枕詞1「神風の」(2)
 「神風の」は、神武天皇代の記紀歌謡「くめ歌」と雄略天皇代の紀歌謡の3個所に使用があります。その部分を下記に挙げます。

●記歌謡14(久米歌)
 神風の 伊勢の海の
 生石(おひし)に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ
 細螺(しただみ)の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ

●紀歌謡8(来目歌)
 神風の 伊勢の海の
 大石にや い這ひ廻る
 細螺の 細螺の 吾子(あこ)よ 吾子よ
 細螺(しただみ)の い這ひ廻り
 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ

●紀歌謡78(秦酒公 琴を弾くの歌)
 神風の 伊勢の、伊勢の野の
 栄枝(さかえ)を 五百経(いほふ)るかきて
 其(し)が尽くるまでに
 大君に 堅く仕へ奉らむと
 我が命も 長くもがと
 言ひし工匠(たくみ)はや あたら工匠はや 
 
  「くめ歌」は神武天皇の東征譚に出て来る歌謡で、紀伊から大和へ攻め入る戦闘で詠った天皇の歌です。「伊勢の海の岩に這い回っているキサゴ(小さな巻貝)のように這い回って、敵を皆殺しにするまで這い回って、攻めようぞ」というほどの意でしょうか。神武天皇の東征は、九州から大阪湾に来て難波から上陸できずに紀伊に迂回して、熊野から大和へ攻め入って行くのです。歌謡の「神風の伊勢の海」は、伊勢の国まで行っていないので東征の経路にはありません。強いてかこつければ、日の神なので陽を背負って東側から攻め入ったという理屈に、紀の国に面する海が「伊勢の海」だったとでもいうのでしょうか。その陽と神の風を背負った伊勢の海のキサゴのような兵士を想像すれば良いのかも知れません。そうだとしても、伊勢神宮と神風が結びつく場面ではありません。この「くめ歌」は、記紀成立頃の朝廷で実演されていた舞楽の歌(大歌)だったようなのです。万葉集の歌にある枕詞「神風の」と比較すれば、どちらが先の使用言語か決められないどころか、大伯斎宮の使用言語「神風の」との比較ならば、後者の影響が濃いぐらいなのです。
 雄略天皇代の紀歌謡78は、高殿を作っていた匠(たくみ)が伊勢の采女を犯したと誤解され、天皇にまさに殺されようとした時に、秦酒公が琴を弾いて詠い、諌めた歌なのです。この歌によって匠の命が救われたという劇っぽい歌謡です。伊勢や三重の采女が突然登場する雄略天皇代ですが、その采女は神女ではありません。天皇の周囲の配膳等に奉仕する下女のように扱われています。歌謡でも伊勢神宮と関わった采女を見出すことはできないのです。
 記紀歌謡の「神風の」は、伊勢神宮と関わる意義が見いだせないだけでなく、語源を想起させる地名との関連も見いだせないと言わねばなりません。歌謡では、すでに人々が「神風の」が伊勢に掛かる修飾語であることを承知しているようにも思えるのです。
 
 記紀の記載に「神風」と「伊勢神宮」の関連はあるのでしょうか。この点について、歌謡とは別の場面から記紀の記載を調べて考えて見ます。


2018-03-20

万葉集の枕詞(17)

(2)万葉集巻13の枕詞 ⑰
 
   枕詞2 「神風の」
 「神風の」は、伊勢に掛かる枕詞です。伊勢神宮に関係する言葉であろうことは、鎌倉時代の元寇で「神風が吹いて日本が救われた」と言った話や戦中の「神風特攻隊」と言った言葉の使用からも想像できます。皇国日本と伊勢神道を結びつける大切な言葉であったと思われるのです。
万葉集では6首に使用されています。巻13の女性歌2首、持統天皇の挽歌、大伯皇女の挽歌、伊勢行幸時に京に留まった妻の歌、長田王の歌です。他に人麻呂の挽歌に「神風に」という言葉が使用されています。他の枕詞と比較しても、女性主体の歌に登場するのは、偶然としても面白いことだと思います。作歌年代の分かる順番に並べれば、以下のようになります。

●2-163
 (686年:伊勢斎宮から帰京する際の大津皇子への挽歌)
神風の伊勢の国にもあらましを いかにか来けむ君もあらなくに

●2-162
 (持統8年(694年)御齋会の夜に夢で習った天皇の歌)
 (略)
 いかさまに おもほせしめか
 神風の 伊勢の国は
 沖つ藻も なみたる波に
 潮気のみ かをれる国に
(略)

●4-500
 (碁檀越の伊勢の国に往きし時、留れる妻の歌)
 神風の伊勢の濱をぎ折り伏せて旅宿(ね)やすらむ荒き濱辺に

●1-81
 (和銅5年(712年)長田王、伊勢斎宮に遣わされた時の歌)
 山辺の御井を見がてり 神風の伊勢処女ども相見つるかも

 500番歌の作歌年代は不明ですが、前後を人麻呂の歌が挟み、巻1に持統天皇の伊勢行幸で都に留まりし人麻呂の歌があったことを想起すれば、持統4年時の作歌に思えます。このように4首を眺めて、巻13の「神風の」が使用された歌を以下に並べて見ます。

●13-3234
 (天武天皇代:大伯斎宮の伊勢斎宮讃歌と推定した歌)
 やすみしし わご大君
 高照らす 日の皇子の
 聞(きこ)し食(を)す 御食(みけ)つ国
 神風の 伊勢の国は 国見ればしも
 山見れば 高く貴(たふと)し
 川見れば さやけく清し
(略)
 かけまくも あやにかしこき
 山辺の 五十師(いし)の原に
 うち日さす 大宮仕へ
 
 「やすみししわご大君 高照らす日の皇子」は重要なキーワードです。万葉集の長歌では常套句として各有名歌人が使用し、記歌謡(ミヤヅヒメの歌)でも登場する章句だからです。これは後で論じるとして、この歌を民謡だと解釈した人は見ないし、おそらくいないと思います。格調の高さ、漢詩風対句表現、序詞の修飾…こうした表現は、高度な教養あるいは修練を積んだ者でなければできないことです。人麻呂に勝るともいえる歌だと思うのです。そしてこの歌は、「伊勢国」と「山辺の五十師にある大宮」の讃歌とも解釈できます。その描写は、当地の美景を知らなければ詠えないものです。このようなある意味では、意図的な讃歌で「神風」の言葉が使用されているのです。大伯斎宮の伊勢斎宮讃歌と推定した由縁ですが、この仮定で言えば、もう一つの巻13の長歌相聞(3301番)も同じ大伯斎宮の歌と解釈できたものでした。
 作者名の分かる歌で「神風の」という枕詞は、大伯皇女が最初に使用しています。これに巻13の2つの歌も伊勢斎宮の歌だとすれば、万葉集の「神風の」という枕詞は、大伯皇女の歌から始まったものであり、伊勢斎宮と関連する言葉でもあったと言えるのです。では、記紀歌謡ではどうでしょうか。

プロフィール

読み人知らず

Author:読み人知らず
 東北の田舎に暮らす退職者です。こんな年齢で万葉集を読み始め、読むほどに好きになりました。たくさんの人が万葉集について語っています。
 私も、巻13にある「読み人知らずの歌」を語りたくなりました。誰にも読まれずしんしんと埋もれていくとしても… 

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