2017-09-22

万葉歌と記紀歌謡(3)

   万葉歌と記紀歌謡(3)
 記紀歌謡は、5人の天皇代に偏って盛り込まれているのです。初代天皇神武から第34代推古天皇までの期間に掲載された歌謡数は、古事記103首、日本書紀は99首です。その歌謡の分布を天皇代で調べると、神武天皇、景行天皇、仁徳天皇、允恭天皇、雄略天皇の時代に歌謡が集中しているのです。どのぐらい偏っているか、歌謡数を並べて見ます。

               古事記の掲載数 日本書紀の掲載数   
 ① 初代 神武天皇     13         8    
 ② 12代景行天皇     15         7    
 ③ 17代仁徳天皇     23        21    
 ④ 20代允恭天皇     12        10    
 ⑤ 22代雄略天皇     14         8    
            合計   77首       54首
                 (75%)      (55%)
 
 古事記の歌謡で言えば、34人の天皇の治世があったにもかかわらず、たった5人の時代の歌謡で75%を占めてしまうのです。その歌謡もかなり特定の物語に付随して詠われています。「古代歌謡」の特徴である口誦歌は、日本のあらゆる場所で発生し、歌われた場や目的は多種に渡っているはずなのです。ところが、これらの歌謡は特定の逸話の中に挿入されたものです。そして、自明な歌であるかのように名称があるのです。そこで次に、記紀に歌謡名があるもの(神武から推古まで)を全て挙げて、上記の天皇代の歌謡と照らし合わせて見ます。
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2017-09-21

万葉歌と記紀歌謡(2)

万葉歌と記紀歌謡(2)
 日本文学の発生は「うた」から始まったとする文学観は、いまだ主流に思えます。「うた」は、日本人が日本に住んだ時からあったのです。原始宗教の呪詞が当てはまったり、労働の歌謡が当てはまったり、歌垣の歌謡であったり、酒宴の歌謡であったりしながら、口誦歌として伝承されてきたものなのです。古代歌謡、上代歌謡、記紀歌謡の言葉があるので、ニッポニカで調べてみました。
「古代歌謡」とは、奈良時代から平安時代初期にかけての資料(書物や文書、金石文)に収められている歌謡の総称。資料が平安時代のものでも奈良時代に遡りうるものを「上代歌謡」といい、古事記、日本書紀のものを特に「記紀歌謡」という。

 その「記紀歌謡」の説明も拾ってみました。各辞典が共通して述べるのは「万葉時代及びそれ以前の日本の歌の最も古い姿を示す」という点です。一方で次のような注意点も喚起されています。
(1)世界大百科事典
  記紀の記述は神話、伝説に始まって、7~8世紀の時期に及んでおり、その各所に歌謡が含まれるが、7~8世紀のものを除く 大部分は、叙述された時代の所産とはなし難い。
(2)マイぺディア
  多くの物語、説話と結びついているが、もとは何らかの由緒を伴いつつ独立して伝承されていた歌が、編纂者によって物語に  取り込まれたものであろう。

 記紀歌謡は、古事記に112首、日本書紀に128首あります。両書の記載期間は違っています。古事記は、神代から第34代推古天皇までの古事を記しています。日本書紀は、神代から第39代天智天皇までを記しています。記紀歌謡を分かりやすく同じ期間で見るために、神代を除いて、初代神武天皇から第34代推古天皇までの期間で、掲載された歌謡を見てみました。記紀の記述した年数を信じて時代を遡れば、紀元前から7世紀前半まで千年を超える計算になります。調べるとすぐに、面白いことが分かりました。
2017-09-20

万葉歌と記紀歌謡(1)

  万葉歌と記紀歌謡(1)
 笹朝臣金村の歌から記紀歌謡に移ります。話がどんどん横道に行きますが、朝廷歌人金村の歌を特徴づける上で関係があるからです。金村の歌が集中に載るのは、古事記が成立し日本書紀が成立する時期と重なり、さらにその後10数年を経ているのです。朝廷歌人である金村が、朝廷歌謡である記紀歌謡を熟知したのは当然なはずです。さらに言えば、官人に人気のあった歌謡の言葉を借用して作歌することもがあり得ると思います。彼の歌は、宴席の場で詠われたものが多いのです。そのような場面では、手っ取り早い歌の共有感を、記紀歌謡のような物語歌に託せばよいと思えるからです。この場合の模倣は、古代歌謡からの引用です。宴席とはいっても、朝廷歌人の面目を持って詠うのです。一般論で言えば、技術的にも歌世界的にも文学的価値がある歌が予想されるのです。残念ながら、金村の歌に文学的な評価はあまりないようなのです。
 一方で、私が述べた大伯皇女と大津皇子の愛の物語で見れば、どうでしょうか。愛の物語が記紀の逸話と歌謡にちりばめられているというのが私の見立てです。このようにしてある痕跡ならば、その本体は記紀の逸話にはないのです。本体は、集中巻13の長歌相聞にあるのです。この場合の金村の模倣問題は、記紀歌謡ではなく巻13の長歌相聞に戻ってくることになるのです。

  注:笹朝臣金村の時代判明歌は、715年から733頃まで。この期間に活躍した歌人と言える。古事記成立は712年。日本書  紀成立は720年。

 もともとは、集中にある「うつそみ」と「うつせみ」から出発した話です。2つの言葉は、意味上の区別が無く、使用年代の新旧区分もつけがたいものでした。「うつそみ」だけを見れば、大伯皇女、人麻呂、家持の3人だけが使用した歌言葉で、大伯皇女が最初に使ったのです。後の2人は、「うつそみ」と「うつせみ」の言葉を両用していました。2つの言葉を区別しているという点では、巻2編纂者という影の人物が登場してきました。影の人物は、大伴家持を強く想像させるものでした。この点も中座して、集中における「うつせみ」の時代変遷に移ったのです。作歌時代の判明歌を調べると、人麻呂以降、これらの言葉が使われていなかったのです。それが、金村の歌に「うつせみ」が突然3首も登場するのです。以後、大伴氏に関係した歌に「うつせみ」が現われてきて、家持が登場すると、彼が多用していくのです。他方、作者不明歌10首で見れば、巻13の歌中に2回登場しています。「うつせみ」を使用した長歌で結びつけると、人麻呂、金村、坂上郎女、家持、巻13の女性作者が浮かび上がる。などなどの事項を書き綴って来ました。最終的には、「うつそみ」と「うつせみ」に舞い戻る話なのです。「うつそみ」と「うつせみ」を使用する歌人たちの背景には、巻13の長歌相聞がある。それはとりもなおさず大伯皇女と大津皇子の愛物語である。とまあ、最終的にそこにたどりつく話なのです。

 大伯皇女と大津皇子の愛物語が、事件直後から朝廷歌人(人麻呂)の歌に投影されて広く朝廷の中で伝承された。その模倣が金村の宴会歌にも継続して表れている。一方で、大伴氏関係の歌に表われる謎の伝承過程がある。

 大伯皇女と大津皇子の愛物語の本体である巻13の長歌相聞群は、記紀歌謡にも散りばめられた伝承歌であるから、万葉歌人の歌が類似するのは、当然の帰結である。何故ならば、巻13の長歌相聞こそが万葉集の愛の歌の根源だから…と言う、そこに戻って行くための寄り道なのです。
2017-09-17

「うつそみ」と「うつせみ」(23)

 持統天皇は、記紀編纂(特に書紀)にも一番に関わったと思われる天皇です。墓誌収集を行い氏族の系譜や逸話を調べさせたりしているし、記紀の具体的な著述を行ったとされる帰化人の続守言や薩弘格が活躍している時代だからです。万葉集の代表歌人であり、朝廷歌人である柿本人麻呂が登場して活躍したのも、この持統天皇の時代なのです。
 また、草壁皇太子の妃だった元明天皇は、大伯皇女、大津皇子と年齢も違わず、一緒に育った幼馴染だったはずです。彼女の夫も息子も20代という若さで亡くなってしまうのです。大津皇子事件に対する鎮魂の思いはきっと強かったと思います。万葉集の吹刀自の歌(22番歌等)は、この御方の作ではないかと私は思うぐらいです。その元明天皇の時代に古事記が成立するのです。大津皇子謀反事件から26年、大伯皇女没年から11年後のことなのです。日本書紀の成立は、さらに8年後の720年なのです。

 大津皇子謀叛事件と大伯斎宮事件は、愛の物語(悲劇)として朝廷歌謡あるいは歌舞楽で、取り上げられていた。一方では、記紀の神話や歴史的な記述にも重要なテーマで関わったと考えるのです。その記述が盛られたのは、古事記の最後である推古天皇以前の古代です。人々の記憶に残る過去の時代よりもはるか彼方の時代に置かれたと言うわけです。大津皇子賜死の正当性を伝え、姉弟の悲劇を鎮魂するのに適う逸話が、記紀のはるか古代の彼方にちりばめられたのです。記紀歌謡もまた同様にそれらの逸話に付随してちりばめられているのです。

2017-09-16

「うつそみ」と「うつせみ」(22)

 私の想像を繰り返すと大津皇子の謀叛は、伊勢斎宮(姉)との密通事件でした。インモラルな意味(禁忌)での「国家を危うくする」謀叛だったのです。政権奪取の謀叛ではありませんでした。政権転覆を目論んだ謀叛ならば、大津皇子の賜死後、逮捕した関連者を「皆許せ」などと免罪する訳がありません。しかし、伊勢斎宮が関わる皇族の不名誉な密通事案です。事の真相をそのまま公(おおやけ)にはできなかったことでしょう。一方では、そのまま真相を封印すれば皇后側の謀略であったという史実が生じてしまいます。きっと当時の世間に流れた風評であったはずです。それに皇后側の謀略と言う意味では、確かに謀略であったはずなのです。大津皇子を賜死させたことは、実子の即位継承を実現し、ライバルを消して後顧の憂いを絶ち、持統系皇統を成就させる上で、やはり陰謀的だったのです。また、姉弟の密愛に罪があるならば、そのような境遇に貶(おとし)めた天皇、皇后の罪でもあったはずです。身内ならば殺さずに処理することも出来たであろう事件です。このような身内としての同情感や疾(やま)しさ、怨みへの恐れは、その後皇統を引き継いだ者たちの心に強く残ったことでしょう。
 それで、怜悧な持統天皇はどう対応したかです。インモラルな意味(禁忌)での謀叛事件を、いかに世の中に周知させて啓蒙していったのかという問題です。後継すべき草壁皇子を亡くして即位した持統天皇は、大津皇子の事件を隠ぺいせずに、歌物語化することで広まらせていったと考えるのです。それは、古代朝廷における逸話、近親愛によって始まり罰によって結末する悲劇の物語です。そのような暗に大津皇子事件を彷彿させる歌舞楽を作り広めさせた…あるいは、自然発生的に創作された歌謡を受容したと考えるのです。
 持統天皇は天武天皇の祭事政策引き継ぎ、葬儀(楯節舞)、正月行事(踏歌など)伊勢行幸時の歌舞など、歌舞楽を臣下や民の慰撫と啓蒙に有効活用した為政者でした。歌舞楽の本流は、天智天皇から天武天皇の代に中国大陸や朝鮮半島の文化を経由してもたらされたものなのです。百済や高句麗などの流民を主体とした帰化人によって形成されたのです。その歌舞楽に伍する日本的な歌舞(雅楽)が形成されたのは、持統天皇以降であろうと言いたいのです。朝廷の祭事に物語性をおびた日本的な歌舞が生まれたのです。日本的な物語性のある歌舞が生まれたのは、持統天皇代以降であろうと強調したいのです。その中に大伯皇女と大津皇子の悲劇が取り上げられていたというわけです。大津皇子謀叛事件が皇后側の謀略ではなく、インモラルな事件だったことを、歌謡に表現させたのです。宴の余興とはいえ、歌舞楽によって語られた過去の物語は、見た人々に強い印象を与えて伝播していったと思われるのです。その対応こそが、大津皇子賜死の正当性を教え、姉弟の悲劇を鎮魂するのに適う有効な手立てだったと思うのです。
プロフィール

読み人知らず

Author:読み人知らず
 東北の田舎に暮らす退職者です。こんな年齢で万葉集を読み始め、読むほどに好きになりました。たくさんの人が万葉集について語っています。
 私も、巻13にある「読み人知らずの歌」を語りたくなりました。誰にも読まれずしんしんと埋もれていくとしても… 

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